実は「斜陽」の製麺業界、20年前から東京の会社半減 それでも、ITベンチャーから30歳で家業の製麺会社に戻った3代目の狙いとは

ラーメン人気の高まりとは裏腹に、「製麺業界」は斜陽産業という。戦後に創業した小規模な製麺所が、後継者難や機材の老朽化、新型コロナ禍で続々と閉業しているからだ。そんな中、鉄道内の店舗や社員食堂、ラーメン店など多くの事業者に自家製麺を卸している「株式会社丸山製麺」(東京都大田区)は、創業70年を迎える中、多くの卸先から支持を得ている。3代目としてITベンチャー企業から家業に戻った、丸山晃司取締役(38)に、製麺業界の現状や家業へ戻った際の心情を聞いた。
目次
東京に200社あった製麺会社がいまは100社以下

――会社の歴史や、現在の事業内容について教えてください。
丸山製麺は1958(昭和33)年に私の祖父が創業しました。いまは父が社長を務めており、私が取締役の体制で運営しています。
メイン事業は、創業当時から行っている麺製造です。新型コロナウイルスが流行するまでは、大きく事業が変わることもなく、ほぼ1プロダクトだけでした。しかし、当社の卸先は駅の立ち食いそば屋さんや社員食堂などですので、コロナ禍のタイミングで売上が最大8割ほど落ちこみました。
そこから、新たな領域で売上をつくるために、既存の製麺事業だけでなく冷凍ラーメンやらーめん缶と呼ばれている常温の缶詰など、さまざまな新規事業を展開しています。
――製麺業界ならではの課題を教えてください。
日本全体で考えた際に、斜陽産業になっていることです。大前提として製麺業界のマーケットボリュームは、ここ数年で大きく成長しているわけではありません。ラーメンにおいては、つけ麺などのジャンルが生まれているとはいえ、あくまで商品ラインナップが入れ替わりしているだけだからです。
また、以前と比べて製麺会社の数も減少しています。日本に製麺会社は2,000社以上あるのですが、約8割がいわゆる4~5人で家族経営をしている会社です。東京の場合、20年ほど前は製麺会社の数でいうと200社ほどありましたが、現在は100社を下回っています。
家族経営で行っている小さな製麺会社は、当社と同様に創業60~80年ほどの歴史を持つ会社が大半です。これらの製麺会社ではちょうど機械が壊れ、働き手もいなくなるタイミングを迎えています。そのため、2代目で終わらせるか、そもそも継ぐ人がいないなどの理由で会社をたたむことが多いのです。
――さまざまな理由で続けていくことが難しくなっているのですね。
また、昔に比べると競争が激しくなっているのも、製麺業界の厳しい現実です。なぜなら、原価は上昇しているものの、売価はそこまで上がっていないからです。製麺業界は明らかに儲かりにくい業種になってきていることもあり、いまから新規参入する会社もほとんどありません。
これらの理由により、製麺業界は大きな成長を見せることなく斜陽産業となっているのです。
30歳で家業へ戻るために重要視した意思決定の回数

――いずれ家業を継ぐと明確に意識したのはいつ頃で、どのようなきっかけがあったのでしょうか。
明確に認識したのは、大学生の頃だと思います。私は、大学2年のときに一度起業しました。その頃「いずれ自分は家業へ戻るのだから、会社経営や他の学生がやっていないようなことをやろう」と、考えていました。
就職活動でも、面接で「30歳で家業に戻ります」「そこまでに一番成長できる就職先を探しています」と明言していました。
――大学に入る前は、そこまで意識されていなかったのでしょうか。
振り返ってみると、小さい頃から父から影響を受けていたようにも感じます。
家は工場兼自宅でしたので社員の方と会う機会が多く、長男だった私は子どもの頃から製麺組合のイベントなどにも連れられていました。大人と関わる機会が多く、多くの方から「3代目だね」「いつか戻るんだね」などと言われたこともあります。
業界の方や社員からも知られている状態だったので、小さい頃から自然と継ぐ意識を持っていたように感じます。
――30歳で家業へ戻るまでの間に「必ず身につけておこう」と意識していたことはありましたか。
具体的な知識より、30歳までに一番成長ができる環境を探していました。通常、製麺所の息子が積むキャリアでいうと、商社に行くか同業の製麺会社や製粉会社に入る選択肢が王道です。
ですが、私の場合はそのような道を選びませんでした。これらの会社へ行くと、恐らく30歳ぐらいから責任が大きくなり、仕事が楽しくなっていくのだろうと想像していました。そのため、私の場合は、中途半端なタイミングで辞めなければなりません。
なので、30歳という残り7年で、いろいろな経験ができる会社へ行こうと考えました。具体的には、意思決定を数多くできる会社というのが、一番大きなポイントでした。
ですので、別にITが好きだとか、広告が好きだということもありません。早めにリーダーになるとか多くの意思決定をさせてもらうとか、そういうことができる会社はどこかと考えた結果、IT系ベンチャー企業にたどり着いたのです。
思っている以上に新規事業を求められなかった

――承継を前提に家業へ戻ることが決まったときの気持ちを教えてください。
当時は家業に戻って新しいことに挑戦しようというより、伝統を引き継ぎ、既存の顧客を守っていこうという気持ちでした。IT業界に比べれば、日常的に激しい変化にさらされる業界ではないと考えていました。
また、新型コロナウイルスが流行する前までは、創業時からずっと順調だったと聞きました。だから、何か新しいことを頑張るよりは、順調にやっていかなければいけない感覚が近かったです。
IT業界の経験を生かして社内を良くしていこう、ぐらいの気持ちしかありませんでした。製麺業界をどうこうしてやろうとか、そのような気持ちは一切なかったというのが入るまでの気持ちです。
――新しい動きなどは求められなかったということでしょうか。
そうですね。あとは新規事業を行う際のリスクを懸念していました。
例えば、市販用に販売を始めたとして、食中毒が起きたら業務用はどうするのかといった話です。社長からは「そのような小さいチャレンジをしてまで、なぜリスクを背負う必要があるのか」などと言われましたね。
会社に戻った瞬間は、それこそ「ECで売りたい」とか「海外向けの事業をやりたい」という気持ちもありました。しかし、実際には自分が思っている以上に、新規事業を求められなかったのです。
――会社の事業に大きく関わりだしたのは、新型コロナウイルスが流行してからでしょうか。
まさにそうですね。もともと、社長と私は意見が異なりました。社長はコロナ禍の環境が特殊すぎるため、一時的に売上は減少しても、半年ぐらい耐えればもとに戻るという考えでした。
しかし、私はIT業界にいたこともあり、周りの人がリモートワークし始めた生活を目にしています。
そのため、一時的な需要の減少ではなく、何かしらのことが大きく変わってしまったタイミングだと考えていました。私は、生活が大きく変わるこの瞬間こそが新規事業をやる一番いいタイミングだと考え、そこから「よし、頑張ろう」みたいな感じで動き始めました。
――当時は意見の食い違いがあったのですね。
なので、何か社長と同じ目線で新規事業をやっていたわけではありません。むしろ「合わなくていいや」と考えていたのです。
また、社長は良い意味でも悪い意味でも、この生活の変化やITについては「分からない」と言っていました。分からないことに口を出しても仕方ないから、口は出さないという判断だったようです。
(取材・文/長島啓太)
丸山晃司氏プロフィール
株式会社丸山製麺 取締役 丸山 晃司 氏
1987年、東京都生まれ。大学を卒業後、株式会社VOYAGE GROUP(現:株式会社CARTA HOLDINGS)へ入社し、セールスや新規事業の立ち上げを経験。2018年に株式会社丸山製麺へ取締役として入社。全国にある有名店のラーメンを味わえる冷凍ラーメン自販機「ヌードルツアーズ」を立ちあげる。他にも、らーめん缶の開発など、これまでの製麺事業だけでなく新たなマーケットの開拓を続けている。
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