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「疫病神が余計なことして」現場に嫌われた3代目、それでも改革を進め赤字脱却 全国のエレベーターを支える中部地方の企業とは

1953年に創業し、エレベーターの構造部品を製作している「丸菱製作所」(愛知県春日井市)3代目の戸松裕登代表取締役社長は、父のあとを継ぐべく、新卒で家業の丸菱製作所に入社した。もともと、大手企業の協業会社であることが「企業の価値」と考えていたが、リーマンショックや東日本大震災で「技術力そのもの」が会社の資産だと捉え直し、事業の多角化に乗り出した。その道のりについて、戸松社長に話を聞いた。

「僕の代で工場は廃業する」 しかし、母は怒った

特注の部品を一品一様で対応している(写真提供:株式会社丸菱製作所)

―――丸菱製作所の歴史について教えてください

祖父が創業した頃は、ボルトの転造やネジの加工などを大手企業から請け負っていました。戦後の復興期から高度経済成長期にかけ、受注量を増やして利益を確保するビジネスモデルでしたが、父の代に方向転換しました。

下請けはボウフラだ、なくなってもまた湧いてくると言われたことが悔しかった父の世代から技術力が求められる特注品を作るようになりました。設備投資を進めてエレベーターの構造部品を製作するようになり、現在は大型商業施設のエレベーターの構造部品などを製作しています。

―――幼少期、戸松社長は家業に対してどのような想いを持っていましたか。

実は、家業に良い印象を持っていませんでした。父は平日も会食で遅く、土日はゴルフばかりでほとんど家にいません。

母もそのことに不満を抱いていたので、私も工場を継ぎたくないと考えていました。

ただ、母に「僕の代で工場は廃業にする」と告げた時に、怒られました。その時、家業は僕たち家族にとって、なくてはならない存在だと気づきました。

―――家業への入社はいつ決めたのでしょうか。

東京の大学に進学後、中東史の研究者を目指しました。モロッコへの留学もしましたが、徐々に限界を感じるようになります。

そんな時に父から「ぜひ入社してほしい。経営は自分で方向性を決められるからおもしろい」と熱く言われ、入社しました。

3人の社内ベンチャー部署でものづくりに目覚めて

職人の手作業で進められる板金工程(写真提供:株式会社丸菱製作所)

―――入社し、どのような業務を担当したのでしょうか。

当時の丸菱製作所は売上の90%以上を占めるエレベーター事業と、父が立ち上げたマリン事業がありました。マリン事業は、自社ブランドのカスタムパーツを製作しており、個人用クルーザーの2階に後付けで設置する屋根を開発していました。

もともと船舶好きな父が自ら欲しい製品を開発したことから始までしたが、個人のお客様からの評判は高く、定期的な受注が出てきました。開発スケジュールの定まった案件があったことから、この事業の責任者に就きました。

―――何人くらいの部署だったんですか。

3人くらいの部署で社内ベンチャーのようでした。社内でも存在感はなく、他の社員からは何をしているのか不思議に思われていたように感じます。

わたし自身、ものづくりの経験はありません。製品知識を半年間で覚えたのち、3D設計については1週間で詰め込み、1ヶ月で新製品のデータを作りあげました。

その後、船舶関係の展示会への出展を進めるなかで、大手のメーカーさんから引き合いをいただき、徐々に採用も増えていきました。

―――どのような部分が評価されたのでしょうか。

父がユーザーとして不満を感じた部分を解消するために開発した製品なので、他のメーカーが作っていませんでした。フロントガラスを開閉させる機構の特許を思い切って取得し、独自性のあるブランド商品としたことが強さだと思います。

この船舶用の事業を通じて、ものづくりのおもしろさを実感しました。マーケティングを考え、具体性のある「モノ」ができあがっていく。目に見えるものが徐々に完成していくのが楽しいと感じました。20年で国内での立ち位置が定まった今、海外市場にも挑戦します。

ベテランの現場社員から受けた猛反発

―――会社のメイン事業にはいつから携わったのですか。

後継ぎとして、メインのお客様と信頼関係を構築する必要があると考え、入社して3年後にエレベーターを作る事業に関わるようになりました。

ただ、当時はリーマンショックと東日本大震災が続いて、営業利益が出なくなり、さらに3期連続で赤字になっていた時期です。今後の会社の方針を考えて、少しずつ改革を進める必要がありました。

―――どのようなことに取り組みましたか。

事業を立て直すために、工場の生産能力の「見える化」を進め、「必要なモノを必要な時に必要なだけ作る」というジャストインタイムの生産方式を導入しました。

ただ、この取り組みがベテラン社員の猛反発を招きます。「設計室でカチカチやっている奴のせいで赤字になった」「疫病神が余計なことをやっている」と言われました。生産方式変更の理由を納得してもらう必要がありました。

―――それはどうやって乗り越えたのでしょうか。

その反発が急に変わることはないので、ひとつの仕事に丁寧に取り組みました。部長職に就いていましたが、設計業務や顧客折衝など社員が苦手なものを担当する「なんでも屋」として、少しずつ現場とコミュニケーションを取りました。

すると、徐々に私にしかできない業務があると徐々に理解を示してくれました。最近では入社後に入ってきた社員も増えたこともあり、目指す未来を支えてくれる仲間が増えてきた実感があります。

(取材・文/中島 彰宏)

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戸松裕登氏プロフィール

株式会社丸菱製作所 代表取締役社長 戸松 裕登 氏

1986年生まれ。大学を卒業後、丸菱製作所に入社。町のランドマークとなる高層ビルの大型エレベーターの構造部品製造を主軸に、産業機械の大型フレームなど事業分野を広げている。また、プレジャーボート用の自社ブランド部門も展開中。新規事業として製造業プラットフォーム「アスナロ」を立ち上げ、技術力自体を商品として取引する新しいインフラ構築も進めている。

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