元エリート官僚は、なぜ「実家の豆腐店」を継いだのか 「実家の車が恥ずかしい」「絶対継がない」の思いを変え、大ヒット商品を生んだ3代目

運輸省(現国土交通省)のエリート官僚から、倒産寸前だった実家の豆腐店を継いだ男がいる。佐賀・嬉野温泉の名物「温泉湯豆腐」を手がける「株式会社佐嘉平川屋」(佐賀県武雄市)の平川大計代表取締役(53)だ。大手取引先の倒産や資金繰り悪化という大ピンチを乗り越え、社内改革を断行してローカル名物だった「温泉湯豆腐」を全国区の人気商品へと育て上げた。成功への過程を平川代表に聞いた。
目次
100丁作れば、一家が暮らせるくらい儲かる

──御社の創業について聞かせてください。
1950年に祖父が創業しました。親戚の多くが豆腐店を営んでいて、佐賀と長崎で10軒ほどありました。祖父は親戚から製法を学んで始めたのです。
戦後、少ない資本で始められる商売として、豆腐づくりは選びやすかったのだと思います。でも、親戚中が豆腐屋というのは、今思えば特異な環境だったかもしれません。
──当時の豆腐業界はどのような状況でしたか。
今とは全く違う商売の形でした。物流が発達していない時代で、各地域にテリトリーがあり、町の豆腐屋がその町に卸すという形。他の地域には出ていかず、業者同士の住み分けができていました。100丁作れば、一家が暮らしていけるほど儲かる商売でしたし、競争もほとんどありませんでした。
──それからどう変化していったのですか。
高度経済成長期に入って、スーパーのチェーン化が進み、物流も発達してくると、急速に店を取り巻く環境が変わっていったのです。メーカー主導から小売主導の時代になり、どんどん価格競争が激しくなっていきました。
「豆腐屋にだけはならなくていい」という父の言葉

──幼い頃から家業を継ぐことは意識していましたか。
まったく逆で、豆腐屋にだけはなりたくないと思っていました。朝が早くて、きついイメージがありましたし、何より子どもの頃、トラックでスーパーに配達する「さが平川の豆腐」と書かれたトラックを見るたびに、すごく恥ずかしかったのです。
からかわれたこともありました。実は、これは私だけの感覚ではなくて、豆腐屋の子どもたちの多くが、同じような思いを持っていたという話をよく聞きます。
──ご家族から継承の期待はなかったのですか。
父からは「継いでくれ」という話は一度もありませんでした。むしろ真逆でした。小学校高学年の頃、父と初日の出を見に行った時のことは、今でも鮮明に覚えています。
その時、父が「豆腐屋にだけはならなくていい」と言ったのです。父自身も豆腐屋に対する偏見があったと思います。「頭が悪くて行くところがなかったらやってもいいけど、他にやれる道があるならそっちを」という考えでした。
父も嫌々継いだところがあって、途中で就職試験を受けたこともあったらしいです。祖父が病気になったから継いだ、という理由もあるようでした。
尋常ではない激務で得られたストレス耐性
──大学進学の経緯は?
大学進学や就職は、自分がやりたいものを好きに選びました。当時の私は大きいものや、長く残るものに惹かれていました。そこで建築や土木関係への進学を考えましたが、より長いスパンで残るものを作りたいという思いで、土木工学を専攻しました。
大学院を修了後に運輸省に入り、最初の1年半ほどを新潟県で過ごしました。信濃川の下にトンネルを建設する案件で、耐震設計や意匠設計を担当しました。その後、本省の港湾局に異動し、公共投資の効果測定などに取り組みました。
実は、そこで学んだ長期的な視点での政策立案や、投資対効果を考える姿勢は、後の経営にも大きく活きています。
──当時の業務はいかがでしたか。
とにかく忙しかったです。昼食をまともに食べられる状況ではなく、終電で帰れたのは最初の2日間だけ。あとはもう午前2時、3時という生活が2年以上続きました。
ただ、仕事自体は非常に面白く、論理的に物事を考え、長期スパンで俯瞰してみる力が身につきました。
同時に、尋常ではないストレス耐性も培われました。今思えば、この経験があったからこそ、後の経営危機も乗り越えられたのかもしれません。
──なぜ、官僚をやめて家業に戻ろうと考えたのですか。
大きな転機が2つありました。1つは航空局への異動です。港湾局の激務から解放され、少し時間的余裕ができました。すると、周りが見えるようになり、20代で起業や株式上場を成し遂げる人たちの存在に刺激を受け、「自分も何か思い切りやりたい」という気持ちが芽生えました。
もう1つは、婚約者の弟さんが事故で亡くなったことです。「人は死ぬ間際、どんな気持ちで死ぬんだろう」と考えるようになり、今後のことを見直すきっかけになったのです。
──入省から6年で仕事を辞めるという決断がとても早いですね。
海外赴任の話もあったため、年齢を考え、今辞めようと思ったのです。ちょうどカメラにハマっていて、自分を表現する楽しさを知り、自分で事業をやりたい、起業したいと思っていました。
実家を継ぐというよりも、一度家業の豆腐屋に入って、今後のための経験を積もうという思いで、入社したところが強かったかもしれません。
平川大計氏プロフィール
株式会社佐嘉平川屋 代表取締役社長 平川 大計 氏
1971年佐賀県生まれ。九州大学大学院修了。1994年運輸省(現国土交通省)入省。新潟国道工事事務所、運輸省港湾局、航空局を経て、2000年に現在勤める有限会社平川食品工業(現・株式会社佐嘉平川屋)に入社。2006年に代表取締役社長に就任。嬉野温泉の名物「温泉湯豆腐」を主力商品に、通販事業の強化や店舗展開を進め、3年で売上を倍増。2023年に社名を株式会社佐嘉平川屋に変更し、伝統を守りながら豆腐文化の世界発信に挑戦している。
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