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父は死の間際、母の手を握って「最高」と3回つぶやき、旅立った 3度の大災害から再興した「奇跡の飴工場」を継いだ娘

大手には真似できない熟練の手作業で、美しい飴を生み出す「株式会社野州たかむら」(栃木県茂木町)。1965年から飴製造業を営み、水害・地震・竜巻という3度の自然災害に襲われるも、その都度、不死鳥のように再興してきた。父親の残した「最高」という言葉を企業理念に定めた3代目・小崎和江代表取締役に、代表就任までのいきさつと、災害からどのように会社を立て直してきたかを語ってもらった。

順風満帆ではなかった飴製造業

厳選良質素材のどうぶつべっこう飴(写真提供:株式会社野州たかむら)

――野州たかむらの成り立ちについて教えてください。

両親が1965年、飴製造工場を創業しました。その前には造花(シルクフラワー)の仕事をしていたのですが、中国から安い商品が輸入されるようになり、事業を方向転換する必要に迫られ、飴製造に移行しました。

1975年に「有限会社野州たかむら」を設立し、1996年に株式会社へ組織変更しました。1999年に父が亡くなった後、母が代表を継ぎ、私は3代目になります。

「野州たかむら」という会社名の由来は、現在の栃木県を指す下野国の異称が「野州」、そして私の旧姓、つまり母の名字が高久(たかく)、また創業時に飴づくりの指導をしてくれた人が中村さんといい、高久の「たか」と中村の「むら」を取って「たかむら」としました。

――創業後、会社は順調に成長していたのでしょうか。

すべてが順調に、ということはなかったです。以前はOEM(※他社ブランド商品製造)が中心でしたが、仲介業者の不渡りがあり、弊社が負債を背負うなど、いろいろ問題はありました。

入社後にまず取り組んだのはDX

――御社の強みは何でしょうか?

「野州たかむら」の強みは、多品種かつ多様な形状の飴を作ることができることです。看板商品の動物の形をした「どうぶつべっこう飴」をはじめ、様々な形状の飴を製造しています。

しかし大手メーカーは違います。というのも、大手は大量生産型で、シンプルな同じ形状の飴をたくさん作るため、そもそも手作業をやりません。弊社も基本的には機械で作業を行っていますが、あいだあいだに必ず職人による手作業が入ります。

大手と同じ土俵で勝負しても負けてしまうので、大手が絶対に手がけない手作業だけは残したいと考えながら機械化してきました。

――以前はOEMがメインだったとのことですが、取引先はどのような会社でしたか。

メインの取引先は大手のキャラクター企業でした。その企業は実店舗をたくさん持ち、そこで弊社のOEM商品も販売していたのですが、バブル崩壊後、リスクを減らすために店舗を減らしてライセンス事業のほうに移行していきました。

影響で、弊社の売上が落ちたのに加え、1986年には台風による水害に遭い、工場移転を余儀なくされました。OEMに頼り切った経営では自立した経営は難しいと、弊社としても事業の転換をする必要が出てきました。そこで、自社商品の開発を始めました。

――小崎代表の入社後の取り組みについて教えてください。

私は1981年に入社しました。当時はタイムカードではなく、カレンダーの後ろに社員がペンで書き込んだもので、勤怠状況をチェックしていました。

毎日それを集計して給与計算をしなければならず手間だったので、タイムカードを導入し、給与計算もパソコンを使用するように変えました。

また、出荷時の段ボールへの印字を、それまではスタンプで行っていたのをやめてプリンターで打ち出すようにするなど、事務作業の効率化を行いました。

大学時代にパソコンを使っていたこともあって、私はパソコンに対して抵抗がありませんでしたので、効率化の成功につながったのだと思います。

自然災害が2年連続で会社を襲う

検品の様子(写真提供:株式会社野州たかむら)

――代表に就任されたきっかけは?

2011年に東日本大震災が起き、弊社の工場も大きく被災しました。それがきっかけで経営も傾いたため、私が母から代表を引き継ごうと決め、2012年3月に代表に就任しました。

当時は課題が山積みでした。両親は経営を勉強して会社をやってきたわけではなく、ただ高度経済成長の時代の流れで会社を作ったので、企業理念の必要性などは分かっていませんでした。バブル崩壊後は売上も上がらず、経営はうまくいっていませんでした。

また、就任後すぐの2012年5月に茂木町を竜巻が襲い、再び弊社も被害を受けたのです。窓ガラスがたくさん割れ、天井は暴風で押し破られ、社屋はまるで廃墟のようになってしまいました。

地震・竜巻と2年連続で自然災害に巻き込まれ、もうやめてしまおうかという考えも頭をかすめましたが、社員やその家族などいろいろな人に助けられ、「なんとかうちで頑張りたい」と従業員も言ってくれたので、どうにか立て直そうと決心しました。

「最高」と言って亡くなった父

――どのようにして会社の立て直しを図りましたか?

栃木県の産業振興センターによろず支援の拠点があるのですが、まずはそこに相談に行きました。1年ほど勉強会に参加し、会社を立て直すために必要なことを学びました。

指導を受けたコンサルの助言で、会社を一からやり直すため、まずは企業理念を制定することにしました。

そこで、「最高」という言葉を企業理念とすることに決めました。

父はこの世を去る間際に母の手を握り、「最高」と3回言って亡くなりました。父のこの最期の言葉が長年私の頭の中にあって、「私も最後に『最高』と言って死ねるのかな、そういう人生はどんな人生だろう」とずっと考えていました。

父が亡くなった時のシーンが頭に浮かんでしまうので、私は企業理念について考えるまで、この言葉を口にしたことがありませんでした。戦争で足を負傷し、入退院を繰り返すなど、苦労をしてきた父の、最期の「最高」という言葉が頭に浮かび、これは父が残してくれた言葉なのではないかと思って、これを企業理念とすることにしました。

「最高の仲間」とともに「最高の商品」を作り、お客様にも「最高の感動」を届けていきたい、という思いを込めています。

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小崎和江氏プロフィール

株式会社 野州たかむら 代表取締役 小崎 和江 氏

1959年、栃木県生まれ。城西大学理学部卒業。1981年4月に株式会社 野州たかむらに入社。2012年、母に代わり3代目代表取締役に就任。企業理念を父の遺した言葉である「最高」に定め、それまでの主力だったOEMからの事業転換を図り、自社商品の企画・製造開始や直営店「AMER」のオープン、販路拡大など、新たな取り組みを行っている。

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