ヒーローは浅草の「佃煮屋」の祖父と父だった 江戸時代から「一子相伝」の味を継ぐ、立教大卒の30歳

浅草寺の門前町として栄えた江戸浅草瓦町(現在の台東区浅草橋)。江戸時代末期の1862(文久2)年、この地に初代大野佐吉が佃煮店「鮒佐」を構えた。魚介類を醤油で煮る佃煮の原型を初めて作り、160年以上にわたって「一子相伝」の味を守り続けている。5代目の父のもと、6代目大野佐吉を継ぐため修行中の大野真徳さん(30)に、家業と承継に対する思いを聞いた。
目次
幼稚園児が描いた夢は「つくだにや」
――子どものころから、家業を継ぎたいという気持ちはありましたか?
幼稚園の頃、クラスのみんなで「将来なりたいもの」を書いたのですが、ぼくの夢は「つくだにや」。
家が仕事場なので、ずっと親の働く姿を見て育ちました。だから「自分も将来はここで働くんだろうな」と当たり前のように思っていたんですね。
兄弟は妹だけなので、後継者は自分だろうと。当時、従業員からは「ちび旦那」なんて呼ばれていました。
――5代目から、承継について話はあったのですか?
父から「佃煮屋をやれ」と言われたことは、一度もありません。ほかの家族からも言われたことがないと思います。もしも「継げ」と繰り返し言われていたら、逆に嫌になっていたかもしれません。
――日常的に先代の仕事ぶりを見ていたことが、そのまま後継ぎとしての教育になったのでしょうか。
この近所の商家はどこも同じですが、店も家の一部です。子どものころは、店の入口から「ただいま」と家に入る生活でした。仕事場では父が佃煮を作っていて、ぼくもそこにいて、その日の出来事などを話すんですね。小さいときにはまだ祖父も現場にいて、祖父と父がふたりで釜場に立つ姿を覚えています。
小さい頃はみんな、ヒーローに憧れますよね。ぼくにとっての「かっこいいヒーロー」は、父と祖父でした。父はどちらかというと寡黙なタイプで、黙々と仕事をする背中を見ていて、自然と惹きつけられていったように思います。
祖父からの教え「家の癖をつけろ」
――他の仕事に心を惹かれることはなかったのですか?
佃煮屋をやる気満々でした。両親から「大学は、経済学部か経営学部に行ったら?」と勧められたのですが、家業に戻ると決めていたので、「大学の4年間だけは自分の好きなことをしよう」と思い、立教大学の観光学部に入学しました。
学生時代はいわゆるバックパッカーで、世界50カ国以上を巡りました。東南アジアに行ったり、アフリカ大陸を縦断したり……。
それまでは初対面の人と全然話せない質だったのですが、言葉も通じない土地でそんなことは言っていられず、誰とでも話せるようになったのが大きな収穫でした。
――大学卒業後、すぐに鮒佐に入社したのですか?
卒業してすぐに鮒佐に入りました。160年以上続いてきた老舗を継ぐというと、「プレッシャーはなかったのか」と聞かれることがありますが、特に感じたことはないですね。逆に楽しんでいたと思います。
――実際のお仕事について教えてください。
現在の社員は7人で、工場で釜場に立つのはぼくと父だけです。基本的に売り場には出ず、食材とタレにずっと向き合い、父からレクチャーを受けます。工場で洗い物や下処理の手伝いをしてもらう人が1人いますが、味に関わる部分はぼくと父だけしか携わりません。
3代目にあたる曽祖父の教えに、「癖をつけるなら家の癖をつけなさい」というのがあります。ほかの業種なら、他社で修業して知識を取り込むケースが多いかもしれませんが、ぼくらは職人です。
そして、うちは継いだ人にしか作り方が伝わらない「一子相伝」。違う店で勉強して得た知識が役に立つこともあるかもしれませんが、それによって他の店の癖がついてしまい、鮒佐本来の味を守れなくなるかもしれない。だから、「よそには絶対に行くな」という方針でした。鮒佐の味を守るのが、第一の使命なんです。
「守るべき軸」と「新たな挑戦」
――社長を承継するのはいつの予定ですか?
代替わりはまだまだ先ですね。毎日釜場に立っているとはいえ、まだ一人で佃煮を作ることはできません。
今は入社して7年目になりますが、最近は経営についても少しずつ学んでいます。最も重要な仕事である佃煮作りだけでなく、経営面も含めてトータルで、「まかせても大丈夫だ」と父が認めたときに承継となりますが、それが具体的にいつなのかはまだわかりません。父は、39歳で代表取締役に就任し、5代目襲名は44歳でした。
――「鮒佐」というブランドを継承することに対して、お考えをお聞かせください。
守らなければならない軸は守りながら、必要に応じて変えていくところがある、と思いっています。うちの場合は、「守るべき軸」となるのは佃煮の味や製法などですが、近年では軸を守りながら新商品の開発にも取り組んでいます。
うちで常に販売する佃煮は、昆布、ごぼう、あさり、エビ、しらす、穴子の6種類。そこに、季節ごとの商品が加わります。「新商品」はほとんどありませんが、数年前、鮎の佃煮を作ってみたところ、納得のいくものができたので、季節限定で商品化しました。これは実に百数十年ぶりの新商品となりました。
ほかにも、過去に販売していた商品で、現在は材料が入手しにくいなどの理由で途絶えている商品を復活させたいですね。すでに成功例があり、海苔の佃煮がそのひとつ。鮎と同様、季節限定で商品化して売り出しています。
後継者として、伝統をそのまま次世代に受け渡すのではなく、伝統を守るために時代に対応して変えるところは変える、どこをどう変えていくかを見極めることが、重要だと考えています。
大野 真徳さんプロフィール
大野 真徳(おおの・まさのり)
1994年生まれ。立教大学観光学部交流文化学科卒業。学生時代はバックパッカーとして、アフリカ大陸縦断など世界50カ国以上を旅する。2017年、大学卒業と同時に家業の株式会社「鮒佐」に入社した。将来は6代目を襲名する予定で、5代目当主の父と共に釜場に立って佃煮を作り続けている。また、老舗の多い近隣の商店主らと協力し、歴史ある街の活性化にも取り組んでいる。
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