経営戦略Strategy

経営戦略

「銀行を辞めてこい」強引に家業に戻らされ、涙に濡れた夜 医療機器「ヘルストロン」の会社を受け継いで

「白寿(99歳)まで生きることを科学する研究所」を掲げ、2025年に創業100周年を迎える株式会社白寿生科学研究所。全国5000の医療機関や福祉施設に設置された、保険診療適用の医療機器「ヘルストロン」などを主力製品とし、広く健康に寄与することを目指している。原浩之代表取締役(53)は、銀行員として順調にキャリアを重ねていたが、父に「辞めてこい」と強引に事業を継がされ、しかも入社後はその父と衝突を繰り返した。事業承継の経緯について、原氏に聞いた。

祖父がつくった会社のアトツギとして

――会社の社長としては2代目ですが、創業家としては3代目だそうですね。

祖父が1925年に帝国レントゲン株式会社を創設し、白寿生科学研究所を設立したのが1964年です。

祖父は62歳でしたが、1964年当時の男性の平均寿命は60〜63歳くらいだったので、今でいえば「80歳くらいで起業」という感覚でしょうか。そこで、初代社長は当時29歳だった父が務めることになったようです。

私は生まれたときから祖父と同居しており、父親は5人兄弟の長男でした。家の中には祖父が発明した機械が置いてあったり、父親は海外出張でよく出かけていったりと、子どもながらに「家業」を身近に感じていました。とはいえ、詳しい仕事内容は理解してませんでしたが。

「後を継ぐ」といった明確な決心はありませんでした。でも、小学校のクラス委員長を任されたり、高校や大学で200人ほどの団体の責任者をやったりと、「まとめる役割」をこなす機会が多かったように思います。「社長の息子」だったからかもしれません。なんとなく、周囲が自分に対してリーダー役を期待しているような雰囲気を感じていました。

――小さいころ、家業と関わることはあったのですか? 

子どものころは、若手社員に釣りに連れて行ってもらったり、地方で開く会社のイベントに同行して遊んでもらったりするなど、多くの社員と近い関係性でした。白寿に入社した後も、古株の社員からは「ひろちゃん」と呼ばれるなど、家業や社員に親しみを感じていました。

一度は違う道を歩んだが……

――大学卒業後は銀行に就職したそうですが、その経緯を教えてください。

医学博士だった祖父は、私に医者になることを望んでいました。でも、私自身の適性は文系でした。父からは、暗に銀行への就職を仄めかされました。「銀行に勤めろ」と直接言われてはいませんが、父の背中に「銀行へ行ってくれ」と書いてあるような無言のプレッシャーがありました。大学の経済学部で金融関係のゼミを選んでいたこともあり、父の無言の願い通りに銀行への就職が決まりました。

入行後は、東京・神田の支店に配属されました。さまざまな業種業態の企業があり、あらゆる業界のバランスシートを見ることができたのがおもしろかったです。

法人相手に新規営業を行い、大勢の経営者と話ができたことも貴重な経験でした。コミュニケーション能力も身につけられたと思います。銀行の仕事がとにかくおもしろく、のめり込むように働きました。おかげで会社からの評価も上々で、同期とのボーナス額に大きく差をつけるなど、充実した社会人生活を送っていました。

――どのようにして白寿生科学研究所に入社することになったのでしょうか?

私が銀行に勤めている間、白寿生科学研究所もどんどん成長していき、父から「戻ってきて家業を手伝え」と言われました。

でも、私は銀行の仕事が順調なのでその気にならず、しばらく何も返事をしませんでした。すると、1997年8月、「仕事を休んでこっちに来い」と父から連絡がありました。有無を言わさない感じで、忘れもしません。

会社に行くと、証券会社や監査法人など大勢が集まっていて、社長だった父親の隣に座らされ、自社株売買の話を聞かされました。そのとき、「提案書」といって見せられた書類の「後継者」の欄に「浩之様」と自分の名前が書いてあったのです。

――アトツギであることは、もう決まっていたということですか?

外堀がすでに埋まりつつあることをひしひしと感じましたが、「いやいや、待ってくれよ」という気持ちがありました。銀行員として順調にキャリアを築いており、何より仕事がおもしろかった。しかし、その日の夜に「銀行を辞めてこい」と父から念押しされました。悔しくて一晩泣きました。

しかし、結局は家業を継ぐことを決断し、翌9月に銀行に退職の意思を伝え、その年いっぱいで辞めることになりました。父は当時62歳と高齢でしたから、仕方がないと割り切って覚悟を決めました。

父との軋轢

――白寿生科学研究所入社後、どのような仕事をしていたのでしょうか?

最初に配属されたのは経理でした。銀行勤めの経験も生かしつつ、会社の内情や金銭の流れなどの全体像を把握し、会社のことを勉強しろ、という意味だったと思います。同時に株式公開プロジェクトやアメリカのFDA取得プロジェクトのサブリーダーを兼任しました。翌年には、新設の経営企画室の課長になり、経営計画など事業運営に関わるようになります。

――順調にキャリアを築いていったのでしょうか? 

当時は旧態依然としており、利益は出ていても、細かいところで整備されていない部分が多くありました。さまざまな不備や不都合を、尻拭い的に繕っていました。「なんでこんな状況になのか」と、たびたび腹立たしく感じたものです。

株式公開の話があったため、「組織や業務をオーガナイズして、しっかりした経営ができるようにするべきだ」と父に進言しました。すると、徐々に関係がギクシャクしてきたのです。父は29歳から社長だった自負があったのでしょう。私の言うことを聞き入れようとはしませんでした。

私と父は、至るところで考え方が正反対でした。昭和的な社長の振る舞いを見せる父と、合理主義的な私、というところでしょうか。お互いに噛み合うことが少なく、事あるごとに意見が対立しました。

親子継承の難しさ

――父である先代と、どのように折り合いをつけていったのでしょうか?

学んだのは、ものは見方次第である、ということです。私と同じように事業を承継した方と話をすると、やはり「ならでは」の苦労がたくさんあると感じます。

たとえば、私は現在、93%の自社株を保有しています。会社の規模を考えると、奇跡的なことです。結果として先代のやり方は相当な「是」だった。ありがたいと感謝もしています。

でも、「父とは根本的に考え方が合わない」ため、過度に期待するのはやめました。一方で、自分の主張を無理に押し通すのもやめて、自分なりの折り合いを見つけていきました。

――親子という関係の影響もありますか?

家業がなくても、親子の問題はよく聞く話です。「俺の言うことを聞け」と絶対的な存在として迫る親もいますし、「老いては子に従え」と、親に対して主導権を握ろうとする子もいる。

いずれにしても、相手に対して期待するからだと思っています。思い通りに事が運ばないとがっかりする。失望や気持ちの落ち込みがよくない方向に向かう。だったら、相手に対して最初から期待しておかないことが必要になります。

寂しい言い方かもしれませんが、「期待するとがっかりするから、最初から期待しておかない」ことは、アトツギとしての私の重要なマインドのひとつになっています。

この記事の後編はこちら

プロフィール

原浩之(はら・ひろゆき)氏

1971年、東京都生まれ。慶應義塾大学を卒業後、1994年にあさひ銀行(現・りそな銀行)に入行。1998年、株式会社白寿生科学研究所に入社し、2020年に代表取締役社長に就任。日本ホームヘルス機器協会理事、早稲田大学総合科学研究機構グローバル科学知融合研究所招聘研究員なども務める。

FacebookTwitterLine

\ この記事をシェアしよう /

この記事を読んだ方は
こちらの記事も読んでいます

経営戦略

障がいを持つ娘のため、3年間は主夫だったCCCの新社長 カリスマ創業者から後継指名され、「無報酬」を求めた覚悟

経営戦略

「お金はあるのに、家具コーディネートがイケてない…」配送の仕事で気付いた業界の未来 「継ぐ気無し」の3代目が家具企業を成長させた

経営戦略

「なぜ情報を出してるんだ、馬鹿者~!」父に殴られ、3度は眼鏡を壊した 「眼鏡のまち」でV字回復の地元企業、IT出身の息子のネット情報戦略

記事一覧に戻る

賢者の選択サクセッション 事業創継

賢者の選択サクセッションは、ビジネスを創り継ぐ「事業」という新しいコンセプトを提唱し、社会課題である事業承継問題に真摯に向き合うことで、様々な事業承継のケースを発信しています。

フォローして
最新記事をチェック