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「社長の息子は空回り」入社後いきなり、強引にやり方変えて総スカン 「高齢者集めて売る」手法から、ロジカルな寝具販売に変革した3代目

神奈川県川崎市の株式会社半ざむは、地域に根ざした寝具店として、1949年から事業を展開してきた。3代目・佐保田篤氏(43)は、高齢者を集めて高額商品を売るような旧来の販売手法に疑問を抱き、論理的なスタイルで寝具のコンサルティングセールスを開始。一人一人に合った寝具を提案する方法で、売上を伸ばすことに成功したが、「社長の息子」として空回りしたこともあった。佐保田氏に独自の販売方法を確立した経緯を聞いた。

打ち直し業がルーツの「半ざむ」

――「半ざむ」という変わった名前ですが、会社の歩みを教えてください。

半ざむの本家筋にあたる店は、もともとは「大和屋」という商号で、呉服・雑貨店として1876(明治9年)1876年に創業しました。その後、祖父が1949年に本家から少し離れた場所で独立して「半ざむ」の店舗を構え、打ち直し業をスタートしました。

打ち直し業は、打綿業ともいうのですが、昔は綿を回収して打綿業者が打ち直し、家庭でまた布団に仕立てていたのです。それから、「半ざむ」は寝具を扱う店となりました。

屋号の「半ざむ」は、本家筋の当主の範左ヱ門が近所から親しみを込めて「ハンザムさん」と呼ばれていたことに由来します。

――跡取りになるという意識はいつからあったのですか?

おそらく小学4~5年生の頃には、意識していました。当時はお店がとても繁盛していて、祖父母も同居していたので、家族の会話が商売の話でした。

学校から帰宅すると、店の階段踊り場に座り、お店がワイワイと賑わっている様子を見るのがとても好きでした。何よりも両親が楽しそうに働いている姿を見て、継ぎたいと思うようになりました。

――それから、全寮制の中高一貫校であるPL学園に入学したそうですね。

母がPL学園女子短期大学卒で、母の勧めもあって入学しました。厳しいとは聞いていましたが、私は勉強が苦手で、このままでは社長になれないと思い、あえて厳しい環境に身を置こうと考えたからです。

本当に厳しい学校生活でした。1日に何度も点呼があって、遅れると罰がある。整髪料の使用やCDの持ち込みなど禁止事項も多く、両親とは手紙と電話で連絡を取り合っていました。

――厳しい学校生活で何か変化はありましたか?

入学までは、ぼんやりした性格でしたが、自分を変えるために厳しい学校に入ったので、高校2年生の頃には立候補して寮の役員になりました。勉強でも高校から意識が切り替わって、クラス内でも比較的よくできるようになりました。学校生活のおかげで、いろいろ鍛えられたと思います。

海外を放浪して気づいた、これからの寝具店のあり方

――高校卒業後のキャリアについてお聞かせください。

青山学院大学の経営学部に入り、卒業後、呉服販売会社に入社しました。2年半で店長になったのですが、その10カ月後に急にその会社が計画倒産をしてしまいました。

職を失って精神的にも参っていたこともあり、両親に勧められて海外を放浪することにしました。半年かけてヨーロッパを中心に20カ国くらいを旅し、小売の市場、特に寝具店を見て回りました。

その経験はかなり大きいものでした。現在もそうですが、日本の寝具店には、あらゆる寝具が品揃え豊富に置いてあります。一方、ヨーロッパはより専門的です。マットレス専門店か、シーツや布団カバーなどのカバーリング専門店か、その2種類が存在しています。

その狭いカテゴリの中でこだわった品揃えをしている印象でした。欧州の成熟した市場の寝具店のように、いずれ日本も専門化した店舗になっていくのだろう、という気付きがありました。

――帰国後から入社までの経緯は?

今でも師匠のように思っている、静岡県のある寝具専門店の社長との出会いがあり、彼の店で1年間修業しました。

当時の寝具業界は展示会が中心。半ざむもそうだったのですが、要は年配のお客を集めて高額な商品を販売したり、寝具以外に宝飾品も売ったりしていました。こうした販売手法は嫌だな、将来が不安だな、と思っていたのです。でも、静岡の寝具専門店は、考え方が全く違っていました。

そこの社長は、睡眠について勉強し、寝具は快適な睡眠のための道具だという捉え方をしていました。また、寝具のメンテナンスをしっかりやって、売って終わりではなく古くなったら直してまた使ってもらう、という循環的な商売を志向していました。

とても希望の持てるやり方を教えてもらった後、2008年に半ざむに入社しました。

コンサルティングセールスで実績を上げ、本店でも活かせるように

店舗外観(写真提供:株式会社半ざむ)

――入社後はどのようなお仕事をしたのですか?

最初は配達や販売です。父は、その頃にはあまり現場に出ておらず、専務だった母も含めて8名くらいの店舗でした。やる気を持って熱い気持ちで入社したのですが、社内はベテランだらけで、私はあまり歓迎されている感じはありませんでした。

修業先で習ったコンサルティングサービスを早く実践したくて、状況も見ずに無理矢理やろうとしたんですが、母とぶつかり、従業員からは総スカンされて、陰口を言われたりしていました。今思うと、やる気が完全に空回りしていましたね。

そんな折、2009年に千葉のコルトンプラザに出店することが決まり、私が行くことにしました。

――支店での取り組みについて教えてください。

呉服販売会社時代の同僚に、やりたいことがあるからうちの会社に来ないかと誘ったところ、入社してくれることになりました。彼が優秀だったこともあり、やりたかったコンサルティングセールスをコルトンプラザ店で実践したところ、成果が出たのです。2年目で営業利益がかなり出て、8000万円くらい売り上げが出ました。

――具体的にどのような方法ですか?

それまでは羽毛布団などを中心に、「温かい」「気持ちいい」と感覚に訴える売り方でしたが、私はロジックの世界に持っていきたかったのです。当時、オーダー枕が流行りだした時期でしたが、「なぜこの枕があなたにとって良いのか」をきちんと説明して買ってもらう、というやり方です。

今でこそ当たり前ですが、枕やマットレスを薦める際に、睡眠時の姿勢や体圧分散などの概念をお客様に提案すると、納得して買っていただける。コルトンプラザ店は本店と比べると4分の1程度の広さでしたが、マットレスの売り上げは本店を超えたくらいでした。

好成績を収めた実績もあり、2011年に本店に戻って、コンサルティングセールスを本店でも取り入れたところ、他の従業員にも徐々に受け入れられていきました。

――支店で実績を作れたからこそ、本店でも受け入れられたということでしょうか。

はい。半ざむに入社した当初のやり方を思うと、やはり若気の至りだったな、と思います。

価値観や考え方、職歴が全く違う人たちが会社にいるのに、社長の息子がいきなりこれまでとは違う方法を強引に押し付けたら、反発されて当たり前です。反対されて心が折れかけたときに、支店に出る機会があったのは非常に幸運でした。

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佐保田篤氏プロフィール

株式会社 半ざむ 佐保田篤氏

1981年、神奈川県生まれ。青山学院大学経営学部を卒業したのち、呉服事業会社に入社。入社後2年半で店長を任されるも、10カ月目で親会社が倒産。その後、半年間の海外放浪の旅に出かけ、20カ国を訪れる。帰国後、静岡店の寝具店で1年間の修業ののち、2008年、株式会社半ざむに入社。2009年にはコルトンプラザ店の店長として、論理的なアプローチで顧客にマッチしたマットレスや枕などの寝具を提案するコンサルティングセールスを開始して売上を伸ばす。2020年、代表取締役に就任。

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