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「拡大路線」で失敗、銀行に「民事再生」の寸前まで迫られた3代目社長 「くりーむパン」の八天堂、復活の道のり

冷やして食べる「くりーむパン」を看板商品に掲げ、東京や海外にも進出するスイーツパンを企画・製造する「株式会社八天堂」(広島県三原市)。しかし、2007年には「とにかく拡大」路線が行き詰まり、銀行から民事再生手続きに関する書類を突き付けられるなど、廃業の危機に追い込まれていた。どん底から、顧客のニーズを察知して業態を変化させ、復活を遂げた「八天堂」の3代目・森光孝雅代表取締役に、その道のりと経営危機について聞いた。

競合との差別化で生き延びてきた八天堂の歴史

「たかちゃんのぱん屋」1号店(写真提供:株式会社八天堂)

――八天堂の創業からの歩みについて教えてください。

1933(昭和8年)に、広島県三原市で、祖父が和菓子店として「森光八天堂」を創業し、1953年に会社を設立しました。

その後、競合店が乱立する中、2代目の父は和洋菓子店に業態転換し和洋菓子や洋菓子の製造も始めました。苺大福やシュークリームなどといった商品をいち早く取り入れ、他店との差別化を図り、盛り返しました。

当時は洋菓子を扱う店が周囲にあまりなかったということもあり、店に付加価値をつけることができたのです。

しかし、また同様に他の洋菓子店が多数開店し、付加価値が薄れてきました。私は、1990年に三原に戻り、1991年に店から少し離れた場所で焼き立てパンの店「たかちゃんのぱん屋」をオープンさせました。

会社内で起業したというか、別の業態でスタートしたのが現在の八天堂の始まりです。

戦前・戦後の祖父の苦労話から芽生えた、食品製造業への興味

系列の「八天堂ファーム」が広島県竹原市で運営する「八天堂ぶどう園」(写真提供:株式会社八天堂)

――初代や2代目の仕事をどのように見ていましたか?

昔は2階建ての2階が住居、1階が工場で、家族で和洋菓子を作っていました。私の親も祖父も職人気質で、1店舗でコツコツ1つずつ丁寧に商品を作り上げていました。

工場は、働いている社員やパートさんを含め、非常にアットホームな雰囲気で、私自身も仕事に対してマイナスのイメージは全くありませんでした。

私も家業を手伝い、一緒に和洋菓子を作っていました。例えばシュークリームの中にクリームを入れたりする作業は好きでした。

私が小さい頃、祖父は戦時中や戦後の苦労話を何度も聞かせてくれました。物資がない中で、貴重な砂糖と小麦粉をなんとか手に入れたこと。

それで作った饅頭1個の貴重さや尊さ、買って喜んでくれるお客さんを目にしたときの嬉しさと感動、ありがたさ。そういう話を何度も聞いて、私も次第に食べ物を作る仕事への興味を抱いていきました。

――2代目からは、家業を継いでほしいというような話はありましたか?

全くなかったです。しかし、父をはじめ家族が皆、仕事を楽しそうにやっていたということが、私にとって最大の「跡を継いでみたい」と思う要因になったと思います。もし親が愚痴を言ったり、つらそうに仕事していたりしたら、全く違っていたでしょう。

――森光さんの八天堂入社までの経緯を教えてください

高校から三原を離れ、当時全寮制だった麗澤高等学校(千葉県柏市)に入学しました。大学は、同じく千葉県市川市の千葉商科大学に進学しましたが、卒業後にどんな仕事に就いたらよいか、何をすればよいかわからず、仕事に対するモチベーションが湧きませんでした。

飲食関連のアルバイトをいろいろ経験する中で、やはり家業と同じく小麦粉を使った食品製造に携わりたいという思いが強くなり、大学を中退し、修業のため神戸のドイツパンと焼き菓子の名店「フロインドリーブ」に入社しました。

大学を途中で辞めることに対して母は否定的でしたが、父は理解してくれて「自分の進むべき方向が定まってきたということであれば、良かったのでは」と背中を押してくれました。

――フロインドリーブではどのような経験を積みましたか?

マイスター制度のある店で、製パンや製菓の技術試験があり、厳しい修業ができました。修業を重ねるうちにパンに1番魅力を感じるようになりました。

地元・三原にはパン屋がほとんどなかったこと、当時焼き立てパンブームが来ていたことも理由です。そこで、1990年に三原に戻って、パン屋を開くことにしました。

企業内起業のパン屋の成功と、代表取締役就任

――企業内起業をされたとのことですが、開店まではスムーズでしたか?

三原に戻った当時、家業の経営は債務超過に陥っていて、厳しい状況でした。私が帰るのを喜んでくれた父ではありましたが、パン屋の開店資金を借りるために銀行に同行してくれるものと思っていたら、「俺は行かない、お前1人で行け」と突き放され、大喧嘩になりました。

一世一代、これからという時、当時社長だった父が一緒に来てくれないことは、私にとって到底考えられないことでした。思えば、そこから父とのボタンの掛け違いが始まってしまったのです。

手探りで事業計画書を作成し、なんとか銀行から資金を借りることができました。私の熱意が伝わって借り入れが叶ったのだと得意になっていました。でも、後々考えると、祖父と父が長年堅実に菓子店を経営してきた八天堂の信頼や、土地の担保評価の枠内で貸してもらえたお金でした。

――開店されてからの評判はどうでしたか?

周囲にライバル店がなかったこと、焼き立てパンのブームが来ていたことなどもあり、1991年の開店後、すぐに「たかちゃんのぱん屋」は人気店になりました。

大手コンビニエンスストアも周囲に一軒もなかった時代でしたから、外部環境がとても良かったのです。朝からお客さんがどんどん来店し、パンを焼いても焼いても間に合わないような状況が3年ほど続きました。借金も2年で返済しました。

――1997年に森光代表が代表取締役に就任されましたが、どのような経緯で承継しましたか?

就任時は、業態が洋菓子店から全てパン屋になっていました。私が実質全てを取り仕切っており、私が社長になると内外的にも業務が進めやすいということで、私が3代目代表取締役に就任しました。

W代表制でやることになり、承継は割とすんなりといきました。

「より大きく」だけを目指す経営が生んだ急成長と破綻

――パン屋だった当時はどのような経営をしていましたか?

当時の私は血気盛んで、気合と根性にまかせて、日本一のパン屋を目指そうと「日本一」と書かれた鉢巻をつけて仕事をしていました。

物事の判断基準の全ては「大小」で、ただただ店舗を増やし会社を大きくしたいという意欲ばかりでした。

確かに、当時はものすごく勢いがありましたが、時代が合ったのだと思います。毎年のように工房付きのパン屋を開店させ、10年で通算13店舗まで増やしました。

しかし、私は経営の勉強を怠っていました。10年で時代が変わり、周囲に同業の焼き立てパン屋やコンビニがどんどんでき始め、景気も悪くなった。すると、店は赤字になり、厳しくなっていきました。店長クラスの社員が辞めていき、開けられない店も出てきました。一気にガタガタになっていった感じです。

ある日、銀行から呼び出しがあり、弁護士事務所に連れて行かれ「民事再生法手続きの書類に目を通しておくように」と言われ、頭が真っ白になりました。倒産が目の前に迫り、頭を殴られたような感覚になったことをよく覚えています。

金策や店舗運営で駆けずり回っているところ、事故にも遭い、どうしていいか分からない状況でした。希望が持てず、追い込まれて「もう自分なんて、いない方がいいんじゃないか」と思うようにまでなっていました。

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森光孝雅氏プロフィール

株式会社八天堂 代表取締役 森光 孝雅 氏

1964年、広島県三原市生まれ。千葉商科大学を中退し、1986年から神戸のドイツパン・焼き菓子の名店にてパン職人修業を開始。祖父から続く家業である和菓子・洋菓子店を継いで、1991年に焼きたてのパン屋「たかちゃんのぱん屋」を開業、事業を急成長させる。1997年に3代目として代表取締役社長に就任。無理な店舗拡大から廃業の危機に陥るものの、業態転換で経営をV字回復させる。2008年に看板商品の冷やして食べる「くりーむパン」を開発、スイーツパンの手土産市場を確立し、国内外へ事業を展開させている。現在ではスイーツパンを中心にアライアンスやコラボレーションで事業を展開し、福祉・農業領域の課題解決にも取り組む。地域社会から応援される会社となるべく、「食のイノベーションを通した人づくりの会社」の実現を目指す。

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