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売上「5分の1」に急落した「町の鉄工所」 立て直したのは「継ぐ気なんて全くなかった」2代目、初めての営業活動へ

九州の田園地帯に工場を構える株式会社石橋鉄工所(福岡県柳川市)は、1984年の創業以来、鋳物・鍛造品・製缶物など、自動車や建設機械の旋盤加工などを手がけてきた。2代目の石橋輝喜社長は、元は家業を継ぐ気がなく、インテリア設計の道を志していたが、ある出来事を機に内定していた企業を辞退して家業へ。2009年、リーマンショックで会社の売上が5分の1に激減した際には、創業者の父親に代わって営業活動に乗り出し、ピンチをチャンスにして経営を立て直した。家族経営の町工場を危機から救い、発展させてきた石橋社長の歩みを聞いた。

家族経営の町の小さな鉄工所

株式会社石橋鉄工所 代表取締役 石橋 輝喜 氏(写真提供:株式会社石橋鉄工所)

──まずは石橋鉄工所の成り立ちについて教えてください。

当社は、1984(昭和59)年に父が創業しました。主に、農機具部品や建設機械部品の製造からスタートしています。

もともとバルブメーカーに勤めていた父が、独立後に古巣の取引先から少しずつ仕事を引き受けるようになりました。創業時は、そのバルブメーカーから機械を譲り受けて事業をスタートさせました。

バルブメーカーのメイン顧客はタイヤメーカーです。タイヤを作る際の蒸気量を調整するためのバルブを製造していました。一般の人は直接目にすることはありませんが、安全に直結する重要な部品です。

──創業当初はどのような事業が中心だったのでしょうか?

創業当初は、農機具部品や建設機械部品の製造が中心でした。具体的にはヤンマーの農機具や、コンバインの部品などを下請けで作っていました。

父の古巣での経験や人脈が活かされ、バルブメーカーからタイヤメーカー、そして農機具や建設機械へと少しずつ仕事の幅が広がっていったようです。

本当に小さな町工場で、私が入社した当時、社員は父と祖父の二人だけ。母が時々手伝いに来る程度の家族経営でした。父は典型的な職人気質で、技術には自信がありましたが、外に出て営業活動をするということはほとんどありませんでした。

基本的には、お客さんが図面を持ってきて、それを加工して、取りに来てもらうという流れで、父は会社を出ることもほとんどありませんでした。

インテリア設計を目指すも、兄が戻らず家業へ

石橋鉄工所の高いレーザーカット技術(写真提供:株式会社石橋鉄工所)

──石橋社長ご自身は、幼い頃から家業を継ぐことを意識されていたのですか?

継ぐ気はまったくありませんでした。父からも「将来は継げ」と言われたことは、一度もありません。私は次男で、兄は工業高校に進学していたこともあり、兄が継ぐのだろうと思っていました。

でも、小学生の頃から家業の手伝いはしていました。小学生の時に工場で機械に穴を開ける手伝いをしていて、機械に巻き込まれて骨折したこともあります。

──家業に入ることになったきっかけは?

私は、地元高校の普通科を卒業した後、インテリア設計の道を目指し、デザイン系の専門学校に進学しました。

でも、私が専門学校を卒業する頃、兄が修行先の関東からそのまま戻ってこなかったのです。そのとき父から「継いでくれないか」と軽く言われました。

既にインテリア会社への就職も決まっていたのですが、物づくりは嫌いではなかったし、地元に友達も多かったので、内定を辞退して家業を継ぐことにしました。

最初は、かなり気軽な気持ちでの決断でした。ただ今思えば、潜在的には物づくりがやりたいという気持ちがあったのかもしれません。高校の時から工場の機械を使って自転車の部品などを自分で作っていて、その時から物づくりの楽しさは感じていたと思います。

物づくりの魅力は、自分のアイデアを形にできるところ。専門学校でもデザインを学んでいましたが、実際に機械を使って、自分の構想したものを形にする喜びがあります。

リーマンショックで売上が5分の1に。HP開設が会社の大きな転機に

──入社後、どのような仕事に取り組まれたのですか?

最初は、父と祖父の手伝いからスタートし、技術を一から学びました。しかし、私は父とは違うアプローチで仕事をしていました。

父は「汎用旋盤」という手動で操作する機械で加工していましたが、私はプログラミングで制御する機械を使っていました。機械制御のプログラムを書いて、それに従って機械が自動的に部品を作り出すという方法です。

私は、高校時代から数学や理系科目が得意だったので、機械のプログラミングに抵抗がありませんでした。

私が入社する5年ほど前に、父はプログラミングで動く機械を3台ほど導入したものの、あまり使いこなせていなかったようです。でも、私が入社してからは、そういった機械をフル活用して、効率的に生産できるようになりました。

──2009年のリーマンショックが大きな転機になったそうですね。

それまでは農機具部品や建設機械部品の安定した注文があったのですが、リーマンショックの影響で急激に減少し、売上が約5分の1にまで落ち込んでしまいました。

このままでは会社が立ち行かなくなると危機感を覚え、新しい仕事を見つけなければと考えました。それまで、当社では営業活動をほとんど行っていなかったのですが、私は人生で初めて営業活動に取り組むことにしました。

まず自社のホームページを作成しました。当時は、中小の町工場でホームページを持っているところはほとんどありませんでした。

ホームページを検索した企業から問い合わせが入るようになり、京都や大阪など、地域を超えた依頼も受けるようになりました。

また、2007年に新しい工場を建てて新しい機械を導入したことで、近所の方々が見に来るようになりました。そこから「うちでもこんなものを作れますか?」という相談が増え、それが新しい仕事につながりました。

事業拡大に伴い、家族だけの経営から中小企業へ

──そのことで事業内容や事業の体制に変化はありましたか?

それまでは農機具部品、建設機械部品が売上の95%を占めていましたが、営業活動を始めてからは自動車関連や造船関連など、さまざまな業種からの依頼をいただくようになりました。

取引先も40~50社まで増え、業種も30業種ほどに多様化しました。現在では農機具・建設機械関連は全体の2割程度で、残りの8割は様々な業種の仕事で構成されています。

取引先が増えたことで、特定の業種が不調でも会社の経営が安定するようになりました。リーマンショックという危機がなければ、こうした変化は生まれなかったと思います。

2007年に工場を建てた後、少しずつ従業員も増やしていきました。最初に入社してくれた友達は、現在工場長です。その後も少しずつ人が増えて、現在は11名体制になりました。元々は家族だけの経営だったのが、今では立派な中小企業に成長しました。 事業拡大に伴い、従業員の雇用の安定のため2014年には法人化も行いました。父は早く経営を引き継ぎたかったようで、そのタイミングで私が代表取締役に就任しました。

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石橋輝喜氏プロフィール

株式会社石橋鉄工所 代表取締役 石橋 輝喜 氏

1979年、福岡県生まれ。デザイン系専門学校を卒業後、2000年に現在務める石橋鉄工所に入社、2014年に代表取締役に就任。父親と祖父の下で製造技術を習得し、2009年のリーマンショック時に営業活動を開始、自社ホームページの立ち上げなど新たな取り組みを実施した結果、農機具部品・建設機械部品製造から事業領域を拡大し、自動車部品や造船部品など多岐にわたる事業展開を実現。精密加工技術を駆使した自社ブランド「μnimet」と「mew」の展開に力を入れ、鉄工所の枠を超えた事業拡大を目指している。「お客様のため」という企業理念のもと、地域の伝統工芸とのコラボレーションや海外展開も視野に入れ、町工場から世界へと挑戦を続けている。現在は社員11名、年商約1億円の会社に成長させている。

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