「継ぐのが当たり前だと思っていた」のに高校1年で家出 卵不使用にこだわった製麺技術を受け継いだ3代目の覚悟

栃木県鹿沼市で70年以上にわたり製麺業を営む石川製麺所。伝統的な「せいろ2度蒸し製法」による焼きそば麺をはじめ、卵不使用にこだわった麺作りで知られる。祖父、父から事業を承継した3代目・石川信幸代表取締役は、高校1年で家出し、2年間自活生活をするなど、紆余曲折の青春時代を送った。その後、27歳で家業に戻り、新たな経営の形を確立してきた石川氏に事業承継の経緯を聞いた。
目次
中国出身の祖父が始めた家業、卵不使用の麺を製造

──創業の経緯についてお聞かせください。
戦後、祖父が創業しました。祖父は中国出身で、留学生として来日したのですが、戦争が始まって帰国できなくなりました。東京で働いていた祖母と出会い、疎開で栃木県鹿沼市に来ることになったと聞いています。
──最初から製麺業を営んだのですか?
元々、祖父は麺作りの経験がありませんでした。ただ、配給の小麦粉をうどんやラーメンに加工して配っていたところ、非常に評判が良かったそうです。地元の方々に教えてもらいながら、少しずつ事業として形を整えていきました。
──事業の特徴的な部分はどこでしょうか?
父の代までは業務用の生ラーメンを中心に、飲食店への卸売りが中心でした。ただ、私が承継を考える頃には、鹿沼市では新規の飲食店開業があまり見込めない状況でした。
そこで私の代になってから、一般家庭向けの販売やイベント需要への対応に力を入れるようになりました。
──現在はどのような製品を販売していますか?
麺類は、ラーメンと焼きそば、パスタを製造販売しています。アレルギー対応の面から、卵不使用、さらに蕎麦も工場内に持ち込まない方針にしています。
ビジネス+プライベート=家業

──小さい頃から家業を身近に感じていましたか?
祖父が保育園の送り迎えをしてくれる時も、車には必ず麺の詰まった木箱が積んであり、「帰りにあそこの店に寄るよ」なんて言いながら配達に連れて行ってくれました。
店舗兼住宅で、祖父母と両親が働いている姿を見て育ったのですが、自宅で商売というより、「職場に寝泊まりしている」という感覚でした。
──お祖父様はどんな方でしたか?
製麺所の他にもいろいろな商売をしていて、周りからは「豪快でやり手」と評価されていましたが、私にとっては普通の優しいおじいちゃんでした。
半袖半ズボン、裸足で歩き回って、お酒が好きで顔を真っ赤にしている、そんな人でした。興味深いのは「製麺業は一番地味な商売だけど、最後まで残った」と言っていたことです。
──家業ならではの特徴というのはありますか?
自宅で商売をしているというと、なんとなく自宅が主で片手間に商売をしているようなイメージをされがちなんですが、実態は全く違います。鳴る電話は仕事の電話が大半で、営業時間外や休日でも「ちょっと焼きそば麺が欲しい」というお客様が来られる。
ビジネスとプライベートが完全に一体化している。それが家業の本質だと思います。
──3代続く製麺所として、家族関係に影響することもありましたか?
父は、祖父から「お前が長男だから継げ」と言われて継がされた経緯がありました。父はそのことがずっと心に残っていたようで、「嫌で継がされた」という言葉を何度も聞きました。
だから、私が27歳で家業に入ることを決めた時、父は「お前がやるなら俺はやめる」と言って、すぐに引退してしまいました。複雑な気持ちもありましたが、父なりの決意というか、自分の経験を息子には繰り返させたくないという思いかもしれません。
今では、父の決断が、私にとっても良い方向に働いたと感じています。自分の決めた道を、自分の責任で進んでいくという覚悟が、そこで固まったように思います。
高校時代、2年間の家出と自活
──家業に入る前はどのような仕事をしていましたか?
高校への進学時、母は進学校に行かせたかったのですが、私は「どうせ家業を継ぐんだから」と商業科を志望していました。その対立から大喧嘩になり、結局親の意向で進学校に入学。でも納得できず、高校1年生で家出しました。
新聞配達をしながら生活し、新聞販売店のつてで安いアパートを紹介してもらい、全ての生活費を自分で工面する生活を2年間続けました。
高校3年の夏に、父から進路の話を切り出され、その頃には怒りもさめていたので、家に戻ることにしました。
──お父様はどういう反応でしたか?
父は「帰ってこい」とは言いませんでした。私の気持ちを尊重してくれていたと思います。当時は複雑でしたが、今思えば、父なりに私の決意の強さを見守ってくれていたのかもしれません。
ファミレス、引っ越し、そして27歳で家業へ
──高校卒業後について教えてください。
商業高校に行けなかったこともあり、家を継ぐという考えが薄れていました。コンビニやファミレス、交通整理など様々なアルバイトを経て、最終的に引っ越し会社で7年ほど働きました。
──その会社での経験は今に活きていますか?
とても活きています。特にチームを組んで1つの目的を達成するために頑張るという経験は貴重でした。同僚たちもみんな気のいい人たちで、居心地が良かったです。
後に製麺所を経営していく中での人との接し方や、チームワークの大切さを学ぶ良い機会になりました。
引っ越し会社で働いている時、繁忙期の手伝いを頼まれて、夜な夜な製麺の仕事を手伝うようになりました。父の指導は厳しかったのですが、そこから少しずつ、「やっぱりこれだな」という気持ちが芽生えていきました。
父との話し合いや、「30を超えると体力的にきつい」という同僚の言葉もあり、27歳の時、本格的に家業に入ることを決意しました。
石川信幸氏プロフィール
石川製麺所 代表取締役 石川信幸氏
1978年、栃木県生まれ。高校卒業後、アルバイトを経て引っ越し会社に勤務。2005年に現在勤める石川製麺所に入社、同時に代表取締役に就任。伝統的な「せいろ2度蒸し製法」を守りながら、一般消費者向け販売の強化や、アレルギー対応商品の展開など、新しい経営戦略を確立。季節などに合わせて鹿沼市の特産品を使った新商品も多く作り出しており、人気で買えない商品も。SNS運用も効果的に行う。現在は従業員5名で、地域に根ざした製麺所として確かな存在感を示している。
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