「大勢の社員を前にして、初めて足がぶるぶる震えた」 ビニールカーテンのトップ企業を父から継いだ3代目の葛藤と覚悟

戦後、爆発的に普及した塩化ビニール製品を取り扱って70年。日本の成長とともに大きくなっていった石塚株式会社(東京都千代田区)は、2018年に熊谷弘司代表取締役社長(42)が3代目として事業を承継した。時代の変化で塩化ビニール製品の需要が変遷していく中、ビニールカーテン専門会社としてトップシェアを誇っている。入社したとき、「足がぶるぶる震えた」という3代目は、どのように会社を継いだのか。
目次
承継ごとに新事業を展開、「ニッチトップ」への成長

−−−−石塚株式会社の歴史と事業内容を教えてください。
1955年に祖父が創業し、父が2代目、私が3代目となる塩化ビニール製品を取り扱うファミリー企業です。
塩化ビニールはプラスチックの一種で、高度経済成長期ごろから生活の一部に溶け込んでいきましたが、当初は色付きで不透明でした。その後、透明な塩化ビニールが開発され、その可能性を感じた私の祖父が卸売りを始めたのです。
2代目の父は、文房具や日用雑貨製品の加工などに事業領域を広げました。日用雑貨製品とは、事務用品や梱包用紙、ビニール傘、VHSのビデオカセットケース、水着を入れるプールバッグなどです。父の代までは、日用雑貨分野で売り上げの7割強ぐらいを占めていました。
しかし、時代の流れとともに日用雑貨製品は、海外生産にシフトし、ペーパーレス化やデジタル化で文房具そのものの需要が減り、ビデオカセットケースにいたってはVHSそのものが市場から消えてしまいました。
事業も、日用雑貨分野から産業資材と呼ばれる工場向けの分野に変わっていきました。
−−−−工場向けの塩化ビニール製品とはどのようなものですか?
代表的なものは、工場の出入り口に設置するビニールカーテン、コンビニのレジ前にある飛沫防止のビニールカーテンなどです。
ビニールカーテンは、工場や倉庫の間仕切りや空調効率を改善し、省エネや節電、防寒、断熱の効果もあります。最近ではスーパーなどで、飲料品の棚に掛かっているビニールカーテンを目にする機会があると思います。
2018年に私の代になり、ビニールカーテンを取り付ける工事まで事業領域を広げ、現在は産業資材運営に力を入れています。ビニールカーテン自体は父の時代に開発されたものですが、私の代になって施工管理に力を入れ、材料の発注から加工、そして取り付け工事まで、弊社がワンストップで対応できるようになりました。
弊社は今年で70年目を迎えますが、代が変わるごとに事業領域が川下に1つ降りて、現在は売り上げの6割強が産業資材分野、文房具が2割くらいになりました。ビニールカーテンを取り扱う事業はニッチなため、業界で「売り上げナンバー1」をうたっています。
「無理」だと思っていた社長業…自ら退路を断ち、覚悟を決めた経緯

−−−−家業をどのように見ていたのですか?
私は3人兄妹の長男ですが、父から「家業を継げ」と言われたことはありませんでした。無口だった父は、家で仕事の話をしなかったので、会社の事業内容も分かっていなかったくらいです。
だから、私に「家業を継ぐ」という強い意志はありませんでした。一方、一番身近な職業は父の「社長」でしたので、意識はしていたと思います。
家業を継いで社長になるのは、選択できる職業の1つといった感覚でした。ただ、どちらかと言うと、若気の反発心みたいなものがあり、家業を継ぐことに反発していました。
私が高校3年生のとき、創業者の祖父が亡くなり、葬儀で参列者から「これから社員と家族の生活を背負うから君も大変だね」などと言われ、周囲に将来の社長として見られていることに気づきます。
同時に、数十人の社員とその家族の生活を背負う責任に耐えられる自信がなく、社長になるのが「嫌」から「無理」という気持ちに変わりました。
そのまま、明確な将来設計を持たず、大学は理系の科目が好きだったので東京理科大学に進学しました。理工学部応用生物科学科だったのですが、大学に通ってみると地道な作業を継続する研究には向いていませんでした。高校時代は研究に憧れのようなものがあったのですが、いざ大学でやってみると理想と現実は違ったわけです。
大学でも将来設計が曖昧な状態のまま時が過ぎ、多くの同級生が大学院に進む中、私は就職の道を選びました。就職活動中に父と食事をする機会があり、「第1志望の企業に受からなかったら会社を継ぎます」と宣言してしまいました。
なぜ、こんな話になったかよく覚えていませんが、心のどこかで家業を意識していたのかもしれません。
第1志望は、子どものころにスーパーファミコンに触れて以来、ゲームが好きだったのでゲームメーカーでした。でも、結局第1志望に落ち、退路を断たれるかたちで家業に入ることになりました。
このときの心境は「やるしかない」という気持ちになって、自分の意識が明確に変わりました。
イメージと違った「営業」のリアル
−−−−卒業後、すぐに家業に入ったのですか?
大学卒業後、まずは弊社で大口の取り引き先で、子ども用シューズで有名な「アキレス株式会社」で4年間お世話になりました。同社は、子供靴以外にも半導体の包装資材やベッドのマットレス、ウレタンスポンジなどを取り扱う企業です。
最初は営業部に3年半在籍しました。営業は、「ノルマを達成するために口八丁手八丁でやっていくものだ」と勝手なイメージを持っていたのですが、実際は商品の価値を伝えることがとても大切で、納得してもらった顧客から対価をいただく仕事だと理解しました。
私は人と話すのが苦手なタイプで営業は不安でしたが、実際はとても楽しく、上司や先輩からビジネスの基礎を教えてもらいました。優れた製品も、営業が価値を伝えることができないと、ビジネスは成立しません。それを体感できた営業の経験はとても貴重で、今でも先輩方を尊敬しています。
また、4年間で営業以外に財務と商品開発も経験しました。商品開発では顧客ニーズを拾ってきて、エンジニアのような立場で一緒に商品を作りました。今あるものを売るだけではなく、顧客が求めるものを提供しながら事業領域を広げる大切さを学びました。
入社後の挨拶で、社員の生活を背負う役割を痛感
−−−−家業に入るときの心境はどうでしたか?
いずれは社長になることが既定路線でした。当たり前のように決まっていたので、入社前に大きな覚悟はなく、簡単に考えていたかもしれません。
しかし、入社時に全社員の前で挨拶をしたときは、足が震えました。何十人もの社員の視線が私に向けられ、全員の顔がはっきりと見えるわけです。
以前、祖父の葬儀で言われたことが現実となり、「この人たちの生活を背負うんだ……」という実感がわいてきて、しゃべりながら足がぶるぶると震えたことを覚えています。
このとき、人は大きなプレッシャーを前にすると、「本当に足が震えるんだ」としみじみとかみしめました。そして「大きな覚悟を持って臨む必要がある」と感じた出来事でもありました。
熊谷弘司氏プロフィール
石塚株式会社 代表取締役社長 熊谷 弘司 氏
1982年、東京都生まれ。東京理科大学理工学部応用生物科学科を卒業後、2006年にアキレス株式会社へ入社。営業と商品開発を経て、2010年に家業である石塚株式会社に入社。入社直後から新しい商品の事業展開を実践し、2013年に取締役に就任。2015年に常務、2017年に専務を経てビニールカーテンの専門企業として地位を高める。2018年に代表取締役社長に就任。
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