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現場で「ボク、何しに来たの?」、スナックで「知らん歌を歌うな!」 京都・老舗蜂蜜屋の3代目、仕事はまったく「甘くなかった」    

京都で1930年に創業した蜂蜜専門店「金市商店」。戦後の砂糖不足に蜂蜜を供給し、京都の和菓子店を支えてきた老舗企業は、「蜂蜜をもっと身近に」をテーマに掲げる3代目市川拓三郎氏(40)によって、さまざまなサービスや新商品が手掛けられ、進化し続けている。2代目との確執をも自身のエネルギーに変え、日本中、世界中の養蜂家を訪ねて蜂蜜を仕入れ、新たなビジネスを展開する市川氏に、家業を継ぐまでの日々について聞いた。

「ハチミツやさんになりたい」

昔ながらのパッケージも大切にしている(写真提供:株式会社金市商店)

――金市商店は非常に歴史のある会社ですね。これまでの歩みを教えてください 

祖父の市川末吉が1930年に創業しました。創業当初は、豆や寒天、砂糖、はちみつなどを扱う「雑穀屋」と呼ばれる商売で、主な取引先は和菓子屋でした。戦後、食料品の統制で砂糖が手に入らなかった時には、蜂蜜を養蜂家から仕入れて和菓子屋に卸していたようです。

その後のれん分けなどを経て、蜂蜜専業の会社に変わりました。京都の和菓子文化の伝統を残すのに役立ったかもしれないなと、誇らしくもあります。

1998年に「ミールミィ」の屋号でスタートした店では、蜂蜜に加え、蜂蜜の加工品や蜂蜜酒の販売もしています。国産蜂蜜が強みで、売上の約半分は直営店での販売。あとの半分は、全国のスーパーや百貨店での販売です。

――家業を継ぐことへの意識は、いつ頃生まれたのですか

幼稚園の卒業文集に、「ハチミツやさんになりたい」と書いていました。ものごころついたときは父・長三郎が代表で、学校から帰る場所が蜂蜜屋さん。工場から蜂蜜をもらって舐めていたし、家業を継ぐのは当たり前だと思っていました。

高校時代はゲームやパソコンも好きだったけれど、商売を継ぐことを想定し、卒業後は関西大学の経済学部に。そして、世の中を広く知った方がいいという理由で親から外に出ることを勧められ、輸入食品の会社に就職しました。営業職で、紅茶やコーヒー、ワイン、ジャム、蜂蜜を百貨店や高級スーパーなどと取引し、食べ物に詳しくなりました。

――金市商店に入社されたきっかけは

輸入食品の会社で10年勤めるつもりが、3 年で退職しました。会社は好きだったけれど、祖母が認知症になってしまって。姉が家業を手伝いながら祖母をケアしていて、自分だけ手助けできないことが嫌でした。

祖母は学生時代もご飯を作ってくれていたし、「商売や家族のことを一緒にやりたい」と思い、決断しました。

金市商店への入社は2009年です。私の本名は「拓」ですが、覚えてもらいやすいように「拓三郎」と商売用に名前をつけました。

立場に甘んじないように、あえて自分に厳しくしようと思い、最初は経験のある営業ではなく、製造に入りました。父が主にやっていた仕事で、蜂蜜の仕入れや仕込みです。肉体労働は経験がなかったので、体力的にも厳しかったですね。

スナックで「知らん歌を歌うな」と怒られて

昭和20年代ごろの金市商店。現在のミールミィと同じ場所(京都市中京区)に立つ(写真提供:株式会社金市商店)

――製造の仕事では、どんな苦労があったのでしょうか

ちょうどその頃、蜂蜜の売り手と買い手の市場の構造転換がありました。もともと買い手が強かったのですが、中国産の食品の信用が著しく下がったことで、日本で販売される蜂蜜の大半を占める中国産を嫌う流れができ、国産蜂蜜の奪い合いが発生したのです。

父の時代は「今年も送ってもらえますか」と電話で注文できたのが、「売ってください」とお願いする状況に変わってしまって。私は、先輩と一緒に取引のある養蜂家さんを回り、新規の開拓にも取り組みました。

でも、最初は養蜂家から、「ボク、何しに来たの?」と言われ、誰も私の話に耳を傾けてくれなかった。そりゃそうですよね。突然20 代のぼんぼんがスーツでやって来たけど、線も細く、何も知らず、何もできないわけですから。

そんな中で早朝から作業を手伝い、農家の生活を体験させてもらい、夜は一緒にお酒を飲みました。疲れて帰りたくてもスナックに連れて行かれ、聞いたこともない歌を聞かされる。当時若者の間で流行っている歌を歌おうものなら、「知らん歌を歌うな」と叱られました。

でも、一緒に飲んだ次の日は仲良くなれるんですよね。そうやって関係づくりを何年も続け、徐々に信頼してもらえるようになりました。10 年ほど経って、笑い話で「あの時は、何をしてもこいつはダメやと思った。会社が潰れると思った」と言われましたね。

養蜂家に育ててもらった感覚はあります。幼少期から当たり前にあった蜂蜜が、こんなに大変な作業をしてはじめて採れるとわかり、その貴重さを感じられました。

養蜂家たちは、跡取りの私にも遠慮せず思ったことを言ってくれる。だからこっちも、負けないように努力する。最初は体力もなく、仕事もわからないので、半人前。そこから仕事を覚え、自分でできるようになって、少しずつ体力もついてきました。買ってきた蜂蜜を販売すると、お客さんに喜んでもらえる。そのことが自信になっていきました。

社長だった父と大喧嘩、そして出社拒否 

――二代目との関係は良好だったのでしょうか

父とは非常に仲が悪く、仕事は一緒にするけれど、ご飯を一緒に食べるのは避けていました。

「お前は仕事をなめてる」と言われ、半人前扱い。「何でわかってくれへんねん」という気持ちがありました。

製造の仕事では、いろんな養蜂家さんから蜂蜜を買い、それを合わせてうちの会社の味を作るので、買い付けだけでなく、早朝から蜂蜜の仕込みで工場に行きます。蜂蜜の品質管理は父が担っていて、それを自分もできるようになりたかった。

でも、お互いに思うところがあり、すぐに口論になるのです。父はお湯を沸かすために朝の4時ごろからスイッチを入れに行くのですが、「タイマーがあるので行く必要ない」と私が言うと、「タイマーを信用できるんか?」などと言ってきます。養蜂家さんの言葉は聞けるのに、父の言うことは素直に聞けなかった。

そんなある日、大喧嘩して父が仕込みに来なくなりました。私は、「ここで泣きついたら負けや」と思い、全部一人でやりましたが、まあ大変でした。

自分でやってはじめて、父が朝早く来ていた意味も、「綺麗に使え」「整理整頓」などと言っていた意味もわかりました。父は、早く来てタイマーを入れ、その間に片付けや細かい仕事をしていたんですよね。

結局、父はそのまま会社に来ず、母・洋子が社長、私が製造仕入れを担う一時的な体制を経て、2017年、私が三代目の社長になりました。「製造の部分は一人でやる」と決意し、父に一切相談せず、失敗しようが泣き言を言わずにやりました。「絶対に父に負けたくない」気持ちで、無理やり独り立ちした感じでした。

社長になって、さらに苦しくなった

――社長に就任した時はどんな気持ちでしたか 

なるべくして社長になったけれど、「ちょっと早いな」という気持ちはありました。覚悟が決まったのは、銀行が来て、会社の融資に対する連帯保証人の欄に署名をした時です。「背負ったな」と思いました。対外的な立場が変わり、銀行や得意先から「社長」の扱いになって、実感が湧いてきました。

一番苦しかったのは、最初の1 年間です。就任当初、「会社を成長させなければ」と使命感をもっていたけれど、売上が落ちたり、人が辞めたり、うまくいかないことがあった。

その時に、「自分のせいだ」とすごく落ち込んでしまって。「自分はあかん」「長く社長をできないんじゃないか」と自信を失っていきました。自分の期待に自分自身が答えられてないことが、すごく辛かったんですよね。

(取材・記事/小坂綾子)

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市川拓三郎氏プロフィール

株式会社金市商店 代表取締役社長 市川 拓三郎 氏

1984年、京都府生まれ。関西大学在学中にバックパッカーで世界中を旅し、卒業後は輸入食品の会社に勤める。2009年に家業である金市商店に入社。蜂蜜の仕入れや製造責任者などを経て、2017年に32歳で代表取締役社長に就任。国内外の養蜂家を訪ねて蜂蜜を仕入れ、「ハニーハンター」を名乗って発信活動にも取り組む。

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