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「ひどかった…」地震と津波に襲われた奥能登の老舗酒蔵を、石川から東北から、ほかの酒蔵が助けに来た 3カ月のスピード復旧を遂げた社長の感謝

2024年元日に能登半島を襲った大地震。奥能登の老舗酒造会社「数馬酒造」(石川県能登町)では、5代目の数馬嘉一郎代表取締役(38)による新しい酒造りの成果が出始め、製品の評価が上がりつつあった矢先の出来事だった。津波に襲われ、無残な姿になった酒蔵、ひび割れた床、割れた瓶……。創業150年以上の酒蔵が直面した最大の危機を、若き5代目はどう乗り越えようとしているのか。3ケ月というスピード復活を遂げた経緯を聞いた。

一升瓶は800本以上割れ、津波の泥が入り、建物は傾いた

−−−−2024年1月1日の地震当日は、どのような状況だったのですか? 

地震が起きた後、まず社員の安否確認をしました。幸い全員が無事とわかり、ひとまず胸をなでおろしました。人的被害がなかったことが一番の救われる思いでした。僕も1日は避難所で家族と過ごし、蔵を見に行ったのは翌日です。被害状況と、何が残ったか、どうしたら酒造りを再開できるかを把握しに行きました。

−−−−数馬酒造の、具体的な被害状況はどのようなものだったでしょうか?

ひどかったです。貯蔵していた酒瓶は800本以上割れ、酒蔵は窓もドアも壊れて土壁も落ちていました。床は至る所に亀裂が走り、地盤沈下から大きなところでは5センチ以上の段差ができたところもあります。また、仕込み中だったもろみも、だいぶこぼれてしまいました。

海岸から150メートルほど距離はありましたが、津波が到達し、泥が入って建物自体も傾いていました。仕込み蔵など酒造りに関わる6棟中4棟は、立て替えや大規模修繕が必要となりました。

ただ、残った経営資源を見た時に、酒造りの再開はできるかもしれない、というイメージは湧いたんです。

−−−−その状況ですぐに再開のことを考えられたのはすごいですね。そこからの動きはどういうものでしたか?

1月3日には、責任者に一度集まってもらい、復旧の方針・優先順位の認識を共有しました。そして、まだ避難所にいる社員全員に、1週間は会社を完全に休みにするので、家族と過ごしてくださいと伝えました。その1週間の間に、まず被災経験のある全国の酒蔵にヒアリングさせてもらいました。

酒造りを再開するとなると、夏場の暑い時期に酒造りをする必要が出てくるのですが、今までやったことがなかったのです。年間を通して酒造りをしている酒蔵に複数社ヒアリングをして必要な設備などを聞き、会計士とも相談して投資計画を立てました。ここまでが1月の上旬です。

石川南部から、全国から、多くの酒蔵が助けてくれた

−−−同業の酒蔵の手助けがあったとのことですが。

1月17日以降、石川県内外の同業の酒蔵さんらが助けにきてくれたんです。仕込み中の酒のもろみはもう廃棄するしかないと思ったんですが、それをタンクローリーに積み込んで自分たちの酒蔵に持ち帰り、代わりにお酒を搾って瓶詰めしてくれることになったんです。

この時は、まだ断水中で水も使えず、来る時はタンクに水を汲んできてもらい、泥を落としたりする掃除に使いました。おかげでお客様にお酒を届けることができて本当に救われましたね。

−−−−そして驚異的な速さで酒造りを再開されましたね。

断水が続いて、いつ酒造りを再開できるか目処も立たなかったのですが、それでも決めてしまったほうがいい、とアドバイスをもらいました。2月初旬には酒造り再開の日を決め、逆算して準備を進めました。 

断水が3月12日に解消し、その2週間後に瓶詰めを再開しました。そして3月末に、社員総会で全員に復興のための方針を伝え、4月1日から酒造りを再開しました。その後も大きな余震で壁がさらに崩れたり、9月の豪雨で仕込み水が調達できなくなったりと、スムーズに復興へと歩めたわけではありません。

−−−−ほかの酒蔵への委託醸造はどういう経緯で行ったのですか?

自社で仕込める分量では原料の米が余るため、ほかの酒蔵さんに託して能登米で委託醸造してもらうことにしました。

ほかの酒蔵さんで醸した日本酒を弊社のお酒として世に出してよいのかという葛藤もありましたが、酒造りを止めて米を余らせると、翌年の農家さんへの発注量が減り、農家に経営ダメージを与えることになります。

これからも農家さんと一緒に歩んでいくためにもほかの酒蔵さんの力を借り、「すべての米を酒にする」ことを優先する決断をしました。 

−−−−スピード復旧のエネルギーはどこから来ていたのでしょうか?

大前提として、人の命が無事だったというのは大きかったと思います。社員が全員無事だった。大事な社員たちが残っていれば、絶対大丈夫と確信していました。

あとやはり、見通しは立たなくてもこの日に酒造りを再開すると決めたことが大きかった。もちろん、本当に数えきれないほどたくさんのご支援があったからこそできたことです。

今まで14年間経営をしてきて、大変なこともいろいろありましたが、すべて何とかなっています。苦境を乗り越えると会社はより強くなるし、今回も会社にとっての成長の機会だと思えたんです。

特に、夏の酒造りは弊社ではじめてのことでした。一旦製造が止まったことで、これまでの全てを見直す機会が生まれ、震災前から目指していた理想の形で酒造りを再開することができています。

3年後、5年後の予定を前倒しし、地震前の姿に戻すのではなくて、成長した形で立ち上がろうと奮闘した1年でした。

事業を継ぐことは「思い」を継ぐこと

数馬酒造 竹葉
「竹葉 能登を醸す in 車多酒造 百万石乃白 特別純米」(写真提供/数馬酒造株式会社)

−−−−老舗の酒蔵を受け継ぎつつ、新しい酒造りにも挑戦している数馬さんですが、事業を「継ぐ」ことに対してどのようにお考えですか?

事業を継いだ以上に、先代、先々代、先祖代々の思いやイズムを継いだ認識の方が大きいです。その思いやイズムを表現する手段の一つとして、酒蔵の事業があると思っているので、事業の形は時代や経営者によって変わっていってもいいのかなと。ただ、思いは一緒なんですよ。それは次代にもつなげていきたいですね。

もう一つ、僕が20歳の時に先代の父からもらった「物事の真ん中を見なさい、本来どうあるべきかを考えて行動しなさい」という言葉があります。この言葉は、父も先々代の祖父からもらったそうです。

物事の本質をしっかり見て、本来どうあるべきかという思考で取り組むことで適切な変化ができると考えています。先代はこの世を去りましたが、大切な言葉や思いは僕の中にあります。

これからも真摯に数馬酒造を経営していきます。

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プロフィール

数馬酒造株式会社 代表取締役(五代目蔵元) 数馬 嘉一郎氏

1986年、石川県能登町生まれ。高校まで能登町で過ごす。玉川大学卒業後、都内のコンサルティング会社に就職。入社2年後にUターンし、2011年、24歳で家業の酒蔵「数馬酒造」の代表取締役に就任。「醸しのものづくり」を通して能登の魅力を高めることを使命とし、耕作放棄地の開墾から酒米の栽培、酒造りまで一貫して取り組んでいる。

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