銀座で独自の地位、老舗百貨店「松屋」を継いだ5代目の覚悟 「百貨店の子」ならではの特別な思い出も

創業150年を超える老舗百貨店「松屋」。2023年に代表取締役社長に就任した古屋毅彦氏は、創業家の5代目だ。幼い頃から百貨店を身近に感じ、「百貨店の子」ならではの特別な経験もしていたが、承継を強制されることはなかった。しかし、大手都市銀行を経て、4代目の父の後を継ぐべく松屋に入社する。東京・銀座で独自の地位を築き上げた老舗を受け継いだ思いを聞いた。
目次
会長だった祖父と過ごした日々

──小学生の頃の思い出を教えてください。
父は仕事で忙しく家にあまりいなかったため、一緒に暮らしていた祖父と会話する時間の方が長かったです。
祖父は松屋の会長を務めていましたが、すごくまじめな人で、仕事の話はあまりしませんでした。ただ、祖父と父の背中を見ながら、自然と百貨店という仕事を意識するようになっていました。
──会社の方との交流もありましたか?
秘書や運転手の皆さんに、よく遊んでもらいました。今と違って、当時の秘書は家庭との境目が曖昧で、本当によく面倒を見てくれました。
よく店舗にも連れて行ってもらい、おもちゃ売り場で時間を過ごすこともありました。1980年代は百貨店の社会的存在価値が今より遥かに高く、街のおもちゃ屋さんか百貨店かという時代でした。
──お祖父様の経営者としての姿はどのように映っていましたか?
祖父は関東百貨店協会の会長を務めるなど、業界全体を見渡す広い視野を持っていました。ただ、家では、むしろ普通のおじいちゃんとして接してくれました。
仕事の話はほとんどしませんでしたが、経営者としての在り方を自然と学んでいたように思います。
──当時の百貨店ならではの思い出はありますか?
今だと「アウト」かもしれませんが、人気のゲームソフトなどをいち早く手に入れることができたので、「百貨店の子」ならではの特別な経験だったと思います。同級生にも事業を継ぐ家の子が多く、「お前は何屋だ、うちは何屋だ」みたいな会話もよくしていました。
父が言った銀座への愛「他の勲章はいらない」

──後継という話はなかったのでしょうか?
家族からは全く言われませんでした。むしろ会社の人や取引先から言われることがありました。だから、子どもの頃から「なんとなく入らなきゃ」という雰囲気は感じていました。
学生時代、松屋で制服を買っていない友達に「制服を買うように」と営業までしていました。
──創業家としての立場をどのように感じていましたか?
松屋は上場企業で、創業家として大量の株式を保有しているわけではありません。ただ、父からは、「家を守れ」というようなことを言われたことはあります。
父にとって「家」は会社と同義語。創業家として、初代が創業し、2代目が銀座に移転、3代目の祖父、4代目の父と続いています。特に父の代で、銀座に深く根付いていきました。
──家業について、当時どのように考えていましたか?
2000年頃は、オーナー企業に対してネガティブな議論が多かった時期でした。大学生の頃はそういう世間の目も気になって、正直、家業について複雑な気持ちもありましたね。
──それでも松屋への愛着はあったのでしょうか?
松屋は銀座の中でも「つつましい魅力」と言われ、独特の存在です。外壁も白く、ゴテゴテしていない。その佇まいは江戸っ子らしい「粋」な感じがあって、子どもの頃から好きでした。
父が中央区の名誉区民になった時、「他の勲章はいらない」と言うほど、地元を大切にする姿勢も印象的でした。
銀行での経験、松屋入社もレールが敷かれている感覚
──大学卒業後、銀行に就職された理由を教えてください。
いつかは松屋に入らなければという思いがあり、そのために必要なキャリアを考えました。当時は間接金融の時代で、情報も人材も集まるのが銀行。様々な会社の経営者と関わる機会もあると考え、三菱銀行に入社しました。
──銀行時代はどんな経験をされましたか?
バブル崩壊後の不良債権処理の時期で、日本の景気が良い時期に働いた経験がほとんどありません。ただ、不況下における様々な企業を見られたことは、後の経営にとても活きています。
銀行の仕事自体は一生懸命やっていましたが、どこか目先の仕事をこなしているだけという感覚はありました。
──2001年に松屋に入社されたのにはどんな理由がありましたか?
実は他社で、承継者が戻るタイミングを逃して帰れなくなるケースを見ていました。周囲の役員からも「早く戻るように」と言われ、入社を決意しました。
自分ではそう思っていませんでしたが、今考えると、誰かにレールを敷かれていた感じがあったのだと思います。
──松屋に入社を決めた時の気持ちは?
正直、その時点では社長になることは全く考えていませんでした。ただ、いつかは自分がハンドリングしなければいけないという意識はぼんやりとありました。理想の姿に向けて、納得がいかないことは1つ1つ変えていこうと考えていました。
覚醒の6年、アメリカでの自分探しと覚悟
──その後、なぜアメリカに渡られたのですか?
松屋に籍を置きながら、銀行にトレーニングとして出向し、アメリカで企画の部署に2年勤務しました。優秀な人たちと働く中で「このままではまずい」と危機感を覚え、その後、学生ビザで滞在し、本格的に英語を勉強して大学院に進学しました。
通っていた大学院には国連や国際金融機関で働く人が多く、皆から「なぜここにいるのか」と問われました。自分の立場を説明する中で、自然と家業と向き合う機会が増えていきました。アメリカでの6年間で、松屋を継ぐという覚悟が決まっていきました。
実は、私は英語が全くできず、20代のうちに海外経験を積みたいと思い、TOEFLを毎月受験し続けました。点数は全然上がりませんでした。だから、アメリカに行く前と後では、本当に生まれ変わったような気がします。
──帰国を決めた時の心境を教えてください。
松屋に戻る決意は固まっていましたが、世の中が大きく変わり始めていることも感じていました。2008年には三越伊勢丹の統合があり、業界再編の波が押し寄せていました。
私が帰国した直後にはリーマンショックが起き、本当に激動の時期でした。ただ、その中で自分なりの経営ビジョンも見えてきていました。
古屋毅彦氏プロフィール
株式会社松屋 代表取締役社長執行役員 古屋 毅彦 氏
1973年、東京都生まれ。1996年学習院大学卒業後、東京三菱銀行(現:三菱UFJ銀行)入行。2001年に現在勤める株式会社松屋入社、販売促進課長に就任。2002年から2008年までアメリカに留学し、コロンビア大学大学院修了。帰国後、本店紳士服部長、常務取締役などを経て、2023年より現職の代表取締役社長に就任。創業150年を超える老舗百貨店の5代目として、営業時間短縮や正月休みの延長など、伝統を守りながら新たな改革に取り組んでいる。
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