訳も分からず会社を継いだけど「神経がプツッと切れた」 波乱に満ちたキャリア、有名TV番組を手がけるメディア企業の社長

ドキュメンタリーやニュースなど数多くのテレビ番組のほか、企業のCMやウェブ動画などを手掛ける「メディアジャパン株式会社」(東京都千代田区)。2022年に創業者から事業を継いだ鷹栖晴奈代表取締役(54)は、28歳で「訳も分からず」に父親から運送会社を承継した後、別の人に経営を引き継いで、大手外食チェーンに転職した。激しい環境の変化による苦労に直面しながらも、再び転職して入社したメディアジャパン株式会社で人生2度目の事業承継を経験した。波乱に満ちたキャリアを送ってきた鷹栖氏に、これまでを振り返ってもらった。
目次
「資本」の意味も分からず、父の会社を受け継いで

−−−−父親の会社を引き継ぐまでのキャリアについて教えてください。
父が運営している建設会社に、新卒で入社しました。
もともと、父は建設会社と運送会社を経営していました。
私自身はインテリアコーディネートを学びたかったので、建設会社へ入社しました。
−−−−どのような経緯で会社を承継することになったのでしょうか?
新卒で入社した建設会社に6年ほど勤めたころ、突然父から「運送会社の方に転籍しろ」と言われ、1998年1月1日に突然異動となりました。
その後、父から「資本をすべてお前に譲るから、株主兼代表取締役になりなさい」と言われ、転籍翌年の1999年に代表取締役へ就任することになったのです。
「資本」や「代表取締役」などと聞いても、意味を理解できておらず、当時は自分の立場も分からないままに社長になりました。
急な展開ではありましたが、いま思い返してみるといくつか伏線があったように感じます。
私が運送会社の代表取締役へ就いた後、2000年12月に父の建設会社が倒産しました。
父としては建設会社の経営が危機だと理解しており、せめて小さい運送会社だけでも生き残れるようにという意図があったのでしょう。
もしかすると、私が生き残れる策という意味も込められていたのかもしれません。
−−−−会社を引き継がれたときの心境はいかがでしたか?
「社長」という肩書に対して、若干の嬉しさがあったように感じます。
ただ、社員は全員40代で自分より年上の男性社員が多く、非常に苦労しました。
男社会へ足を踏み入れた先に待っていた「セクハラ」
−−−−若くして男社会に入られて、一番苦労されたことを教えてください。
さまざまなハラスメントです。
とくにお酒の席では、セクハラがひどかったです。
言葉のハラスメントも受けました。
当時の私はまだ20代だったこともあり、泣いてしまうこともありました。
さらに、別の人間が「かわいそうに」と言って慰めようとする一方、セクハラまがいの近づき方をするのです。
私からすると「なぜそういうことするのかな 」という気持ちでした…。
当時はハラスメントという言葉が定着していませんでした。
「キャー」などと叫んで拒絶するより、「なぜ?」と疑問に感じていました。
ハラスメントを受けているうちに、「自分が悪いのかな?」と、考えたこともありました。
−−−−その後、運送会社を別の人に引継いだのはなぜでしょうか?
精神的に疲弊してしまったのが理由です。
生まれたときから存在していた父の建設会社が倒産するというのは、私には大きな衝撃でした。
一方、私が引き継いだ運送会社は、負債は抱えたもののなんとか生き残れましたが、私自身は相当疲弊してしまっていたのです。
車を運転していると、マンション前で若い母親たちが井戸端会議している姿を見かけました。
楽しそうに話す女性と、近くで遊んでいる子供の姿を見て、当時の私は世の中を憎んでいました。
「私はこれだけ苦労しているのに、なぜあの人たちは楽しそうに話をしているのだろうか」「夫の扶養に入って、きっと悩みもないのだろう」といった一方的な気持ちでした。
私は毎月資金繰りに追われ、手形を裏書して資金を調達するなど毎日お金の計算をしていました。
ある日、ついに神経が「プツッ」と切れてしまったのでしょう。
我慢の限界がきてしまい、これ以上頑張れなくなってしまったのです。
私は父の会社でしか勤務経験がなく、社会に出たことがありません。
そのため、このタイミングで外に出ようと考えて、ハローワークに行きました。
ちょうど大手外食チェーンの基幹工場で総務社員を募集していたので、応募したら受かり、会社員生活をスタートしました。
ふと見てしまったメールに衝撃

−−−−代表取締役の立場から、一社員の立場で仕事をすることになり、感じたことはありますか?
私自身、天狗になっていたため、鼻っ柱をへし折られたように感じました。
幼い頃から、社会に出てからも常に「社長の娘」と呼ばれており、転籍しても結果的には社長になりました。
新しい職場でのお茶出しやごみの管理といった仕事に対して、当時は「なぜ私がやらなければならないのか」という気持ちがありました。
−−−−そのような葛藤があるなかで、仕事へはどのように取り組まれたのでしょうか?
お茶出しが嫌だなどと言ってはいたものの、一生懸命に仕事へ向き合いました。
私は根本的に仕事が好きなので、何事も極めようという考えがあったのです。
その後、年に何回か本社から社長が来たときに雑談の流れで「海外事業部へ異動しないか」と、お話をいただきました。
私は学生時代にアメリカで過ごしていたことがあり、英語を話せたのが理由です。
今後は海外事業部を強化したいという会社の方針もあり、本社へ異動することになりました。
−−−−その後、本社へ異動してから休職されたのはなぜでしょうか?
海外事業部は、多くの社員が憧れる花形部署でした。
一方で、この大手外食チェーンでは当時、店舗の運営経験も非常に重要視されていました。
私は生え抜きではなく、店舗運営の経験もありません。
いきなり社長に引っ張られたことで、周囲の妬み嫉みが生まれやすい環境に置かれることになりました。
また、直属の上司にも、本社勤務の社員として厳しく指導されていました。
ずっと「しんどいな」という気持ちを抱え続けており、ついに会社へ行けなくなってしまったのです。
休職を経て、時間はかかったもののなんとか復職しました。
周りには気遣いをしてくれる人たちもいて、いろいろと優しい言葉もかけていただいたのですが、私自身が疑心暗鬼になって周囲をシャットダウンしてしまい、結果的には退職することにしました。
なぜなら、私を孤立させるような趣旨のメールが、社内で出回っていることを知ったからです。
ふとした時にそのメールの内容を見てしまい「もうこの会社にはいられない」と感じ、再び転職を決めました。
鷹栖晴奈氏プロフィール
メディアジャパン株式会社 代表取締役 鷹栖 晴奈 氏
1970年、栃木県生まれ。父親が経営している建築会社へ新卒で入社。その後、運送会社へ転籍し、1999年に代表取締役へ着任。事業の引継ぎを行い、大手外食チェーンでの業務を経て、2010年にメディアジャパンの前身となる会社へ転職。M&Aを経て、2022年にメディアジャパン株式会社の代表取締役へ着任。コミュニケーションを大事にしつつ、業務フローの整備や社員の意識改革に着手。テレビ番組制作会社として、数多くのニュースやドキュメンタリーの制作に携わり「Rの法則」などの番組を手掛ける。
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