「クレーム」を担当者が隠す、管理職が常に遅刻する それを許すのは「優しさ」ではない、凡事徹底で会社を変えた老舗印刷会社の6代目

1881年(明治14年)創業という長い歴史を持つ株式会社大川印刷(横浜市戸塚区)。輸入医薬品のラベル印刷に始まり、包装紙や各種印刷物の製作を手がけ、現在は環境に配慮した環境印刷のリーディングカンパニーとして活動している。6代目の大川哲郎氏は、「遅刻」「クレーム対応のまずさ」など多くの課題を抱えていた大川印刷の体質を「凡事徹底」で改善することに奔走し、外部団体に表彰されるなどの評価を得た。老舗を継ぎ、社内改革を果たした大川氏に改革の経緯を聞いた。
目次
140年以上の歴史を誇る大川印刷の歩み
ーー大川印刷の歴史について教えてください。
歴史は140年以上あるので、一部分しかお話できないと思いますが、元々創業者の大川源次郎の実家が、薬の貿易商をやっていました。小さい頃から、その手伝いをしていたそうです。
輸入医薬品の商館から医薬品を仕入れて販売するのですが、その輸入医薬品の美しいラベルに魅力を感じ、これは将来、有望な産業になりそうだと思ったらしいです。
ドイツとイギリスから印刷機械を輸入して始めたのが1881年で、創業時は24歳でした。本当に若者が立ち上げたベンチャー企業だったと言えます。
ーー最初は薬のラベルの印刷から始めたということですね。
ええ。そのとき、同時にシルク(絹)につけるラベルも印刷していました。当時シルクの輸出は非常に盛んで、日本でも財を成した方が複数いました。
すると、「これは儲かる」ということで粗悪なシルクを売りつける輩が出てきました。このため、シルクの品質保証、他の商品との品質の違いを示すために石版印刷のラベルが使われたのです。
石版印刷は、版画に近いリトグラフのようなもので、精緻で美しいラベルです。このラベルは、高品質のシルクの証明でした。このラベルを印刷していたのが私どもです。
ーー会社は順調に成長していったのでしょうか?
当時は印刷会社そのものが少なかったので、印刷物全般に関し日本国内はもちろん、海外からの注文にも応じていたようです。やがてシルクの生糸も衰退産業になり、高度経済成長期を経て、製薬会社や崎陽軒といった食品会社との取引で伸びていきました。
高度経済成長以降は、一般商業印刷物の流れを汲み、私が6代目になった1990年代後半からは、特に品質と環境に特化した印刷会社にしていこうと考えました。
家業に対して誇りを抱かせてくれた「シウマイ年賀状」

ーー後を継ぐという意識は小さい頃からありましたか?
子供の頃、私は会社に行ったことはほとんどなかったです。会社と家は離れていましたから。しかし父親とは結構仲がよかったです。会社に関することと言えば「シウマイ年賀状」のことが記憶に残っています。シウマイ年賀状は、その年賀状を売店に持ってくとシウマイに交換できるというものです。
それを小学生時代、友達に送るのがすごく誇りでしたね。そういうこともあって、なんとなく父親が経営している「印刷業」を誇りに思っていました。
ーー後を継ぐことについては?
私が17~18歳のとき、兄と一緒に父親に呼ばれたことがありました。そこで、どちらが後を継ぐかと聞かれて、そのとき長男は「自信がないからやらない」と答えました。
そこで私に、「哲はどうだ?」と聞かれて、私は父が好きでしたから「俺がやるよ」と自然に口が滑った感じです。そのときはあまり深く考えてなかったです。
突然の父の死と母の決意
ーー19歳の時にお父様が急逝されたとのことですが、このときの大川代表や会社の状況は?
本当に急でした。当時、私は大学2年になったばかりで、大学を退学して仕事をするのか、他の選択肢があるかという話がありました。結果的に母が専業主婦から5代目の社長に就任する決意をしてくれたおかげで、私は大学を卒業することができました。
そのあと、父が生前お世話になっていた同業の友人2名から、「お宅の後継者を預かりましょうか」というお話をいただきました。都内の会社と、宮城県の会社の2択だったのですが、都内のほうが近いということもあって、都内の印刷会社に入社することに決めました。大学を卒業してから、その会社に研修生として3年間勤めることになりました。
ーーその都内の印刷会社での仕事は?
各部門を回って、印刷における一連の工程を勉強しました。配送の手配から入り、印刷用のプレートの製作や、当時あった製版などを学びました。印刷機や厚紙を抜く機械、輪転機につくということもやりました。営業のサポートの運転もやりました。
「当たり前のこと」を当たり前にやる怒涛の改革
ーー大川印刷への入社後の仕事は?
当時はバブル崩壊後で、売り上げはどんどん下がっていきました。これからはグローバルスタンダードということで、競争社会が当たり前になって、1円でも10銭でも高かったら仕事をもらえない時代になりました。そのため新規開拓など経営の改革が必要になり、そういった母ができないことを、主に私が担当しました。
たとえば、銀行とのやり取りなどは、母に社長業としてやってもらい、組織のマネジメント改善、組織改革のようなところは、私が先頭を切ってやっていました。
そのときに支えになってくれたのが2人の古参社員でした。1人は番頭のような役割をやってくれた常務取締役で、すごく顧客や社員に信頼されていたので、間に入っていろいろなことをやってくれました。
もう1人の相談役の方は94歳ぐらいで亡くなったのですが、おそらく80歳ぐらいまで相談役として働いていました。そういった方たちに支えられて、母も私も何とかやってこられたのだと思います。
ーー当時の会社の課題は?
歴史のある会社は、良いことも悪いことも引き継いでしまっていることに気付きました。例えば、管理職の人が朝に遅刻してくる。部門の長が、いつ来るのか分からない状態だったのです。
そのため時間を守るところから始めました。「凡事徹底」という、平凡なことを徹底して変えていく。本当にいろいろなことを、一つひとつ潰していくのに時間はかかりました。
ーー当時、大川代表に対する反発などはありましたか?
常務取締役の人と相談役以外は、みんな話を聞いてくれないような感じでした。
辛かったのは、一番の理解者でありながら、一番私の動きにブレーキをかけるのが母の存在だったということです。社内で「社長は優しいのに、なんで室長はあんなにうるさいんだ」みたいなことを言われたりしました。
私は、「社長がやっていることは『優しい』ということではなく、『甘い』ということだと思います」という議論をよくしました。
コインの表裏みたいなもので、「厳しさ」が表面に見えているけれども、ひっくり返すと実はその人の成長を考えている。そんな「優しさ」が裏側にはあるのです。
しかし私は、「甘さ」の裏側には何があるかというと、「冷淡さ」だと思っています。要するに、無関心です。その人が将来、人生で失敗しようが、恥ずかしい思いをしようが、関係ないから冷淡なのです。
ーー会社の雰囲気を変えるために行った対策はありますか?
遅刻を例にすると、「なぜ時間を守れないのですか?」と聞くのではなく、「どうして遅れたのですか?」と聞いて、理由を確認するようにしました。要は、「なぜ?」を「どうしたの?」にするということです。こう聞けば、何か本当に理由があったときに、相手を注意せずにすみます。
あと、会社に戻ったばかりのころは、クレームが非常に多くて苦労しました。お客さんからモノが届かないという連絡があったとき、工場長に聞くと「今から刷るから、午後から持っていくと言っとけ」と言うような状況でした。その人は私と喧嘩して辞めていきましたけど、そういったことは日常茶飯事でした。
そこで納品確認を徹底させて、さらに「クレームのトップ即時報告」というのを義務付けました。当時はクレームをもらったら担当者が隠すので、それを改善しました。
具体的には「報告責任」は問うけれども「発生責任」は問わないということです。それで連絡をもらったら、謝罪は私が最初にするようにしました。これをずっと凡事徹底でやってきて、今はほとんど納期遅延がなくなりました。
そのあと、環境に配慮した物品や、サービスを積極的に購入することによって、環境負荷が軽減できる「グリーン購入」の賞、「グリーン購入大賞」をいただきました。これをきっかけに社員にも、こういう取り組みが世の中に認められるというのが伝わりました。私もだんだん認められるようになり、2005年に社長に就任しました。
プロフィール
株式会社大川印刷 代表取締役社長 大川哲郎氏
1967年、横浜生まれ。東海大学法学部法律学科卒業。大学卒業後に東京の印刷会社で3年間修行後、株式会社大川印刷へ入社。入社後は母親である5代目社長をサポートする取締役社長室室長に就任。バブル崩壊後の印刷不況を組織改革で乗り切り、2005年に6代目社長として事業承継。現在は本業を通じた社会課題解決を実践するため、環境印刷への取り組みに注力している。
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