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「業界4番手」のピーコック魔法瓶、「お店の棚に並べてもらうだけで大変」 父と兄から会社を引き継いだOLの思い

1950年に創業し、今年で75周年を迎える「ピーコック魔法瓶工業株式会社」(大阪市)は、大阪の地場産業「魔法瓶」を支える企業の一つだ。美大志望だった父親、兄から2015年に経営を承継した山中千佳代表取締役社長は、アパレル系などのOLだったキャリアを活かした経営手腕を発揮している。「業界4番手」で「お店の棚に並べてもらうだけでも大変」という状況だが、中近東やアジアなどに高品質の製品を輸出し、成果を挙げているピーコック魔法瓶の歴史と経営戦略、事業承継について、山中氏に聞いた。

大阪発の魔法瓶産業、75年の軌跡

ピーコック魔法瓶工業株式会社 代表取締役社長 山中 千佳 氏(写真提供:ピーコック魔法瓶工業株式会社)

──創業から現在に至るまでの歩みを教えてください。

1950年に創業し、当初はガラスの魔法瓶からスタートしています。今はステンレス製が主流ですが、昔の魔法瓶は内部がガラス製だったんです。

創業当時は輸出が8割、国内が2割という構成で事業を展開していました。

──大阪に魔法瓶メーカーが多いのは何か理由がありますか?

大阪にある造幣局から安く払い下げられる「アンモニウム」という原料があり、ガラスに使われます。そのため、造幣局の周辺にガラスメーカーが集まり、それに伴って魔法瓶メーカーも増えていきました。

かつては50社ほどありましたが、現在は象印さん、タイガーさん、アルゴさんと弊社の4社が残っています。

──主な輸出先はどちらでしょうか?

最初は東南アジア、特にタイが中心でした。私の叔父がタイの方と交流があり、留学生も受け入れていた縁がありました。その後、中近東へ広がりました。

中近東は紅茶を飲む文化がありますが、ステンレスだと香りが移るため、ガラス製の魔法瓶が好まれます。今でも輸出のメインは中近東です。

──国内市場については、創業から今までにどのような変化がありましたか?

高度経済成長期の1960年代後半~80年代、マイホームブームと相まって、家庭の食卓には必ずポットがあるという生活が普及しました。バブル崩壊後は共働きが増え、電気ポットへの移行が進みました。

その頃、当時社長だった叔父から「会社を立て直してほしい」と呼ばれて父が入社し、輸出8割・国内2割の比率を逆転させる方針転換を行いました。

業界4番手、どのように棚に並べてもらうか

おうち居酒屋シリーズの「酒燗器」(写真提供:ピーコック魔法瓶工業株式会社)

──子どもの頃の商品の思い出は何かありますか?

子どもの頃の魔法瓶は重たかったですし、落とすと割れるので、非常に高価なものでした。よくお客様からも、「子どもの時に使っていたものを落として怒られた」という思い出を聞きます。

私自身は「可愛いのが出たら欲しい」くらいの感覚でしたが、父は日曜日に魔法瓶のデッサンを描くほど熱心で、美大に行きたかったほど絵が好きでした。4人兄弟の3番目で、両親から「お前はそのまま働け」と言われて美大の夢を諦めたようです。

父は、買い物に行くと、女性の洋服売り場や化粧品売り場でも形状をよく観察していました。子どもの頃は「なぜこんなにいろいろ見ているんだろう」と思っていましたが、大人になった今、「モノ作りが好きな人だったんだな」と理解できました。

私のファッション誌も見ていて、それをボトルの柄やデザインの参考にしていたんです。

──お父様が魔法瓶製造に関わるようになったきっかけは?

父は「人に使われるのは嫌だ」という思いが強かったようで、友人と起業し、その後独立して「山中魔法瓶」を設立しました。

その後、叔父から「ピーコック魔法瓶工業を引き継いでくれないか」と誘われ、即答で承諾したそうです。ピーコックブランドとして製品を世に送り出すことは、父の夢の実現だったのだと思います。

──ご自身のキャリアについて教えてください。

全く家業を継ぐ意識はなく、普通にOLとして商社で働いていました。スポーツ系アパレルメーカーで販売職を経て、その後ゴルフにはまり、ダンロップに転職しました。

人と接しながら物を売ることが好きで、お客様が何を求めているのかを見極めることの大切さを学びました。ダンロップでもその経験を活かし、売上を伸ばすことができました。

──販売職の経験は現在の仕事に活きていますか?

非常に活きています。弊社は「象印」や「タイガー」などに次ぐ業界4番手という立場で、棚に並べてもらうのも容易ではありません。

そこで、バイヤーさんとのコミュニケーションを大切にし、何が求められているのかをしっかり理解した上で提案することを心がけています。

人と人とのつながりが深くならないと、物は売れないというのが私の信念です。社長としても、重要なお客様には自ら足を運び、トップセールスを続けています。

強引に戻され、なんの準備もなく社長就任

──ピーコック魔法瓶工業に入社されたきっかけは?

入社の予定はなかったのですが、父から「財務をやっている親戚が定年になるので、経理を見てほしい」と強引に誘われました。

財務の経験がなかったので断ったのですが、逃げ切れなくなって、1年間簿記学校に通ってから入社しました。

──入社当時はどのような状況でしたか?

入社した2006年当時は、古い昭和時代の体質で、システム化があまり進んでいませんでした。そこでまず、システム面の改革から始めました。

財務面では特に大変なことはなく、父が利益を出しながら売上も伸ばしていました。父の時代はどんぶり勘定とまでは言いませんが、そこまで細かく数字を見なくても儲かっていた時代でした。入社時点では国内市場は好調で、7〜8年ほど売上は伸び続けていました。ただ、海外市場が厳しい状況でした。

──社長に就任されたきっかけを教えてください。

兄が社長を継いでいたのですが、体調を崩してしまい、父から「このままでは難しいので、お前がやってくれ」と言われました。最初は経験も準備もないと躊躇しましたが、兄と私の2人兄弟だったこともあり、引き受けることになりました。

兄からは今でもアドバイスをもらっていて、商品ラインナップについて相談することがあります。

「今までと同じようなやり方では難しい」

──経営を引き継ぐ際に印象に残っていることはありますか?

父はすでに80歳を超えており、私が引き継いだ直後に病気になってしまい、なかなか十分な話ができなかったのが残念です。もっと話を聞いておけばよかったと後悔しています。

ただ、父は時代の流れをずっと見てきた人だったので、「今までと同じようなやり方では難しい」とアドバイスしてくれました。私自身も財務を見ていたので、売上が徐々に落ちていく傾向は感じていました。

──どのような課題に直面されましたか?

父はトップダウンで全ての判断を下し、自分で商品開発もしていました。そのため、社内でものを考えて提案していく文化が根付いていませんでした。

私自身、アイデアは出せても、父のように「ここをこう変えてこうするといい」といった具体的な改良案までは考えられません。これは社内全体の力を借りて進めていく必要があると、就任当初に強く感じました。

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山中千佳氏プロフィール

ピーコック魔法瓶工業株式会社 代表取締役社長 山中千佳氏

1966年、大阪府生まれ。大学卒業後、商社での営業事務、アパレル企業での販売職を経て、ダンロップへ転職。2006年にピーコック魔法瓶工業株式会社に入社、2015年に代表取締役社長に就任。「お客様目線のものづくり」を掲げ、社内改革を推進。マーケティング部門の設立やEC事業の立ち上げなど新たな取り組みを次々と実現。現在、従業員95名、売上高は直近3年で5%増を達成している。トップダウン型経営からの脱却を図り「ワンピーコック」の理念のもと組織文化を改革。女性視点を取り入れた商品開発や真空技術を活かしたニッチ商品の展開で、象印・タイガーという業界巨頭に対抗する独自の市場を開拓している。

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