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アルミ建材の内装会社、借金かさみ介護事業へ参入 社名に「工業」で信用得られず、それでも再起した2代目

1981年創業の内装業企業「有限会社齋藤アルケン工業」。父に「後を継いでくれ」と言われ、2代目として2000年に入社した齋藤憲嗣氏(52)は、バブル崩壊後の厳しい経営環境の中、介護事業への参入を決意した。当初は社名の馴染みのなさから苦戦を強いられるも、内装業のノウハウを活かした細やかなサービスで信頼を獲得。今では、売上の6割を介護事業が占める企業へと生まれ変わらせた。新たな道を切り拓いた2代目経営者に、挑戦の軌跡を聞いた。

原点は「積み木代わりの建材」

地域に根差し、信頼を築くケアマネージャー(写真提供:有限会社齋藤アルケン工業)

──創業当時の話を聞かせください。

1981年に両親が創業し、後に法人化しました。父は職人として現場を、母は経理を担当していました。

社名の「アルケン」は「アルミ建材」の略です。最初はシャッターの取り付けから始めて、その後サッシ、軽量鉄骨工事など、ビルやマンションの内装工事へと事業を広げていきました。

──子どもの頃の思い出は?

学校が終わると、家ではなく会社の事務所に帰っていました。私は小学生、弟は幼稚園の頃は、遊び場として事務所を使っていて、内装の材料を積み木代わりにして遊んでいた記憶があります。ただ、会社が何をしているのかは全然分かっていませんでした。

自宅と事務所では、学校の校区が違いました。だから放課後に遊ぶ友達も全く違いましたね。事務所の近くの子どもたちと、内装材で遊んだりして、その子どもたちとは中学・高校になってようやく校区が一緒になった記憶があります。

就活では問題児扱い。大ケガと異動、山口での出張所立ち上げ

──家業を継ぐことになったきっかけは?

大学在学中に父から「継いでほしい」と言われました。特にやりたいこともなかったので、すんなり了承しました。

ただ、修行が必要ということで、私の適当な就職活動を見かねた父が取引先のメーカーを紹介してくれました。

縁故入社なので、7次試験まであったのに、全部適当に対応してしまいました。最終面接では社長の名前も知らずに臨み、社長の逆鱗に触れてしまいました。それでも取引先だからということで採用してもらえました。

ただ、問題児扱いでしたので、入社のオリエンテーションが終わったらすぐ広島配属になりました。

──入社後はどんな仕事をしましたか?

入社してすぐの6月、工場のローラーに指を挟んで大けがをしてしまい、半年ほど入院することになりました。その後、製造の仕事はできなくなり、2年ほどトラックでの配送を担当。

その後、山口県の営業所立ち上げを任されました。営業の経験がなかったにも関わらず、玄関での挨拶の仕方を1回練習しただけで営業に送り出されました。

そんなゼロからのスタートでしたが、何をすればいいか分からないながらも努力し、結果もついてきました。行動力が取り柄だったので、とにかくいろんなことにチャレンジしました。

また、当時の上司からは、社会人としての姿勢を教えてもらい、仕事の基礎を多く学ばせてもらいました。山口営業所でやり尽くした気がしていたので、そのあと家業へ戻ることにしました。

バブル崩壊後、苦難の船出

有限会社齋藤アルケン工業 代表取締役 斉藤 憲嗣 氏(写真提供:有限会社齋藤アルケン工業)

──2000年1月に齋藤アルケン工業に入社していますが、当時の経営状況について教えてください。

入社してすぐ、現場で職人として内装の仕事を覚えていきました。ただ、バブル崩壊後の不況で仕事が激減していました。

本来なら2人でできる仕事に、わざわざ5人で行くような状況。金融機関から借入金返済の電話も頻繁にありました。

私が入社してしばらくすると退職者が2人出ました。私が小さい頃からいた職人さんと、父の弟です。おそらく金融機関主導で返済計画が作られ、その中でリストラを求められたのだと思います。

今思えば、とんでもない計画書でした。何年かしたら急に利息や元金が跳ね上がるような、素人が作ったような数字合わせでした。

2002年にメインバンクが来て、会社の保証人になることを求められました。その時に初めて、年間売上6000万円に対して借入金が5000万円もあることを知りました。契約書を何度も読み返しましたが、抜け道はありませんでした。

にんにく栽培? 介護事業? 新規事業を模索した日々

──新規事業を模索されたきっかけを教えてください

このままでは立ち行かないと感じ、新しい事業を始める必要を感じていました。とにかく現金が欲しかったんです。まずは、補助金を活用した農業参入が推奨されていた時期だったので、農業に挑戦しました。

ニンニク栽培を始めたのですが、3年でうまくいかず撤退。その後、商工会議所主催の介護事業セミナーに参加し、介護用品貸与事業に可能性を感じました。内装業で培った技術も活かせると考えました。

──当時、周囲の反応はどうでしたか?

当時の妻からも、会計事務所の担当者からも否定的な反応をされました。悔しくて、その会計事務所の所長に泣きながら電話をしたことを覚えています。今思えば、担当者は現実を冷静に見ていたのだと思います。

でも、もう後がない状況でしたから、前に進むしかありませんでした。

母は介護ヘルパーの資格を所持していたので、私は福祉用具専門員の資格を取り、要件を満たして2009年に開業しました。

──実際に始められた時の状況はどうでしたか?

信用が全ての介護業界で、後発の我々は苦戦しました。「齋藤アルケン工業」という社名も介護らしくなく、2年間はほとんど実績が上がりませんでした。

母からも「自分の給料はなくて、大丈夫なの?」と心配されましたが、両親は最後まで見守ってくれました。

そして、介護事業をスタートして3年後に転機が訪れたのです。

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斉藤憲嗣氏プロフィール

有限会社齋藤アルケン工業 代表取締役 斉藤憲嗣氏

1972年、島根県生まれ。大学卒業後、家業の取引先メーカーに入社。製造、配送、営業を経験し、2000年に現在勤める斉藤アルケン工業に入社。2009年に介護事業を立ち上げ、2011年に代表取締役に就任。介護と食品の2本柱で事業を展開し、現在は年商2億1000万円、従業員18名。地域に密着した介護サービスと、介護施設向け食材販売事業を手がける。2018年からはスーパーマーケットでの介護無料相談所を開設し、高齢者の些細な困りごとにも対応。「ありがとうを創造する会社」を理念に掲げ、内装業で培った技術を活かしながら、地域の課題解決に取り組んでいる。

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