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「何の特徴もない」地方旅館、倒産危機を越えてV字回復 4人の子が地元に残らず、さびしそうだった両親を継いだ4代目

温泉街として全国的に知られる大分県別府市。明治後期に創業した関屋旅館は、現在では関屋リゾートとして、デザイナーズ旅館や大型宿泊複合施設を展開し、国内外から多くの人々が訪れる。元は「何の特徴もない」ひなびた旅館だったが、倒産危機に陥った家業を救うために建築資材会社から転職した4代目の林太一郎代表(49)が、新しいチャレンジを成功させ、地元の人気企業に導いた。林氏に、事業承継とその後の新たな取り組みについて聞いた。

老舗だけど、特徴はなかった

関屋旅館
幼少期の関屋旅館(写真提供/株式会社関屋リゾート)

ーー関屋リゾートの歴史を教えてください。

明治時代後期、曾祖父と曾祖母が立ち上げた林旅館がルーツで、約120年の歴史があります。

隣に関屋旅館という旅館があり、それを取得して一つにするときに屋号をいただいたと聞いています。法人化したのは1965年で、有限会社関屋が関屋リゾートの前身です。

ーー関屋旅館はどのような旅館だったのでしょうか。

私が子どもの頃の関屋旅館は、5階建て客室10室。宴会場があるような、昔ながらのオーソドックスな旅館で、宿泊だけではなく会社の忘年会なども受けていました。私の父が料理人、母が女将をやりながら、数名のパートを雇う個人経営の旅館でした。

父は生真面目な性格で、毎朝隣の大分市の市場に行き、仕入れた海鮮を提供していました。料理が結構評判で、リピーターのお客さんもいました。でも、別府は有名な温泉地ですから約400軒の宿泊施設があります。特徴の無い関屋旅館は決して流行っていたとは言えませんでした。

私は長男でしたが、家業を継げというようなことは言われず、高校卒業後は関東の大学に進学しました。

誰も残らなかった4人の子

ーー事業を継承するまでの流れを聞かせてください。

私は事業を継承する気持ちは無かったけれど、4人姉弟の長男でした。当時、姉は大阪、弟が東京に住んでいて、末っ子も大学受験で東京に行くことになり、子どもが誰も大分に残らないことになりそうでした。両親が寂しそうにしていましたので、私は業種にこだわらず大分で就職することを決めました。

大分市にある実力主義のおもしろそうな建築資材の卸売会社に入りました。仕事は営業で、自らが仕掛けたことが数字に繋がって充実していましたが、就職して5年目の2001年に、父から会社の資金繰りがいよいよ厳しくなってきたと相談を受けたのです。

ーー業績はかなり沈んでいたのですか。

当時の私は旅館5階に住んでおり、そこから会社に通っていました。数年前からお客さんが少なくなっていたことを感じていましたが、中途半端に関わると両親も嫌だろうなと思い、一切手伝わず口出しもしていませんでした。

一番良いときの売上が6000万円、私が入社する直前が2900万円で半減となり、当時、両親は給料を取らずに働いていたようです。

おそらく両親は私に手伝ってもらいたかったと思うのですが、給料が払えないことを気にして言えなかったと思います。だから、私から会社を辞めて手伝うことを提案し、失業保険をもらいながら無給で手伝うことを決めました。2001年のことです。

私は建築資材の会社で働きながら家業のことが気になっていましたし、母が病気を患ったこともあり、ちょうど良いタイミングだったと思います。

ネット予約に挑戦、売上が回復

ーー入社後はどのような仕事をしたのでしょうか。

経営はもう待ったなしの状況で、従業員は家族3人とパート3人のみです。チェックイン、掃除、配膳など基本的な業務のほか、営業活動や採用など何でも必死にやりました。

力を入れたのはマーケティングや広報活動です。従来の関屋旅館は、旅行会社との取引がなく、料理目当てのリピーター、もしくは電話帳で調べて来てくれる人くらいしか入口がなかったのです。

うちの旅館は海の近くにありましたが、海が見える露天風呂があるわけではありません。ウリがある旅館ではなかったので、周辺の人気旅館がいっぱいになって、あぶれてしまった方がうちにたどり着くような構造でした。

だから、どうやってお客さんを増やすかの部分はすごく悩み、たどり着いたのがネット予約でした。

ーーネット予約は黎明期ですね。

現在のじゃらんネットと楽天トラベルを活用しました。プランと料金設定を工夫すると、web上では人気旅館と同列で並ぶことができたのです。

関屋旅館の強みは、父が厳選した食材の料理でしたから「新鮮な海鮮をリーズナブルに食べさせる宿」を前面に打ち出したプランに特化しました。

ターゲットは観光客だけではなく、仕事で大分を訪れた出張族です。例えば、大分市のビジネスホテルは8000円くらいなのですが、隣の別府でうちに泊まってもらえば、同じ値段の1泊2食で温泉に入れておいしい海鮮が食べられます。

それならコスパ的に満足していただけますし、2001年のころは携帯電話とインターネットが普及していった時期だったので、ネット予約の反響は大きかったです。

ーーすぐに結果が出たのでしょうか。

いえ、そういうわけではありません。別の試みとして、私の貯金をはたいて大きな複合コピー機を買い、忘年会プランのニュースレターを数百の会社に送りましたが、まったく反応がありませんでした。ほかの試みも、結果が出たものばかりではなかったです。

それでも、建築資材会社の営業時代、ゼロスタートから何でもやってきてある程度の結果を残した経験と自信が活きました。このまま何もやらないと、じり貧になって倒産が見えていましたので、とにかくやれることはやってみようと思いました。

その甲斐あって翌年の売上は5000万円まで回復して、何とか赤字経営から脱することができました。

「地元にないもの」という発想で生まれたデザイナーズ旅館

別邸はる樹
別邸はる樹(写真提供/株式会社関屋リゾート)

ーー現在の関屋リゾートは複数の施設を運営していますが、多角化経営するきっかけを教えてください。

私が手伝うようになって1年が経ったころ、関屋旅館は新築後19年目でした。あと1年でローンが終わるため、銀行から「返済が終わったら旅館を改築してリニューアルするか、もう1店舗出しませんか?」と提案を受けました。

いろいろと考えてみましたが、関屋旅館を改築しても売上が爆上がりすることが想像できなかったです。また、今の時代に求められているものを提供したいと思っていたときに、テレビ番組の『情熱大陸』で建築家の松葉啓さんの特集を見ました。

松葉さんは、箱根などでオシャレな和モダンでかっこいい旅館をたくさんつくる、売れっ子の旅館デザイナーです。当時の別府にはそのような施設がなく、こういう旅館をうちでやれたらいいなとダメもとで連絡しました。すると、ちょうど松葉さんが九州に来るタイミングがあり、実際に会って私の思いを伝えました。

その後、順調に話が進み、松葉さんデザインの旅館第1号「別邸はる樹」が2005年12月にオープンしました。個人のお客さんがゆっくりとくつろげるのがコンセプトで、全6室と少なめですが、各部屋に露天風呂が付いているデザイナーズ旅館です。

デザイン的な部分は、松葉さんに任せました。建築資材会社で働いているときに職人さんと接する機会があったのですが、クリエテイブな職人の力を最大限出してもらうには、素人があまり口を挟まないほうがいいのです。

ですから、「別邸はる樹」も松葉さんがやりやすいように進めてもらい、大人が贅沢な時間を過ごせるような素晴らしい旅館にすることができました。

ーー「別邸はる樹」はすぐに軌道に乗ったのでしょうか。

時間がかかりました。別府の宿泊施設の平均単価は約15000円で、「別邸はる樹」は25000円と高額でした。最初はお客さんが全然来なく、しばらくは資金繰りがカツカツの状態になりました。

そのため夜勤のスタッフを雇えず、私が毎日泊まり、日中は旅館の仕事をしつつ、続けて夜勤をするような住み込み生活が続きました。とてもハードでしたが、地元にないものを持ってくるほうが価格競争にならないし、絶対やっていけるだろうという自信があり、徐々に評判を呼んで乗り越えることができたのです。

ーーご両親の反応はどうでしたか。

後で聞いた話ですが、別府に無かったビジネスモデルだったので、父はリスクが高くてうまくいかないと思っていたようです。それでも赤字になったら関屋旅館でカバーするつもりでいてくれ、計画に反対するようなことはありませんでした。

それは、私がネット予約の取り組みで売り上げを改善させた実績があり、父は認めてくれていたのだと思います。やはり、事業を継承する過程で新しい試みをやろうとするとき、それまでの努力や結果は大事だなと感じました。

当初は苦戦した「別邸はる樹」ですが、終わってみれば1年目から関屋旅館の売り上げを越えていました。オープンから3年目くらいに全国ネットのテレビ番組に取り上げられ、遠方からのお客さんも増えています。なかなかの盛況ぶりに両親は安心してくれて、会社も軌道に乗ることができました。

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プロフィール

株式会社関屋リゾート 代表取締役社長 林太一郎氏

1975年、大分県別府市生まれ。桜美林大学卒業。1997年に大分市の建築資材会社に就職。営業職として実績を残すも、2001年に現在の関屋リゾートに入社。家業の関屋旅館の建て直しを図り、2005年には新たな取り組みとして、露天風呂付デザイナーズ旅館「別邸 はる樹」をオープン。2008年に代表取締役に就任し、「テラス御堂原」「GALLERIA MIDOBARU(ガレリア御堂原)」を展開。「宿泊業界のリーディングカンパニー」を目指す。

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