2000年代初頭「納豆氷河期」、競合他社の逆張りで乗り越えた東京の高級納豆企業 年10%の売り上げ上昇を支える「助けて!」の声を聞く力

妻の叔父であった2代目社長の突然の死をきっかけに、妻の家業である納豆企業「有限会社菅谷食品」へ入社した関本真嗣氏。しかし、承継当時の経営状況は決して良くなかった。大手との価格競争が激しくなる中、あえて高級路線へと舵を切り、国産大豆にこだわった納豆づくりを貫いた。「納豆菌と会話する」という職人技に加え、社員とのコミュニケーションや設備投資にも取り組み、年10%の売り上げ増加を続ける経営について、関本氏に聞いた。
目次
「納豆氷河期」を経て、価格競争に巻き込まれない道を決断

──菅谷食品へ入社することになった経緯について教えてください。
私は兵庫県出身で、納豆が苦手でした。大学時代に交際していた今の妻の家業である菅谷食品の納豆を食べて「納豆って、こんなにおいしいんだ」と衝撃を受けたのが忘れられません。
その後、2代目の急逝をきっかけに、当時勤めていた食品商社を辞めて、2005年に入社しました。どうしても菅谷食品の納豆の味を守りたかったのです。
──入社した当時の経営状況はいかがでしたか?
正直に言うと、かなり厳しい状況でした。流通が行商からスーパーマーケットに変化していくのに伴い、大手メーカーとの価格競争が激しくなっていく時期で、中小の納豆メーカーが次々と廃業していました。
菅谷食品も例外ではなく、年々売上が減少していく傾向にありました。特に私が引き継いだ頃はデフレが加速しており、「納豆氷河期」とも呼ばれる厳しい時代でした。
大手が機械化による大量生産で、1パック30円台という中、正面から戦っても勝ち目はないと感じました。
──どのように活路を見出したのですか?
価格ではなく、品質で選ばれる納豆を目指すしかないと考え、2009年ごろから高級路線に切り替えました。
原料の大豆は国産大豆100%、大半を北海道産にし、一部は有機栽培のものを使用するようにしました。
また、たれとからしは無添加のものに。当時は、有機栽培大豆は問屋でも扱いがなく、農家さんから直接仕入れました。当時は、安い輸入大豆を使用しコストカットして価格を下げるのが主流だった中、あえて逆の方向に進んでいく挑戦でした。
しかし消費者の食への安全志向や国産志向が高まる中で、「少し高くても本物の味がする納豆」への需要も増えていきました。
私が専務となった2016年ごろからは、売り上げが前年を割ることはありません。ここ数年は平均して年約10%ずつ上がり続けています。リピート率も非常に高く、本当にお客様に支えられてきたと感じています。
納豆菌と会話!? 試行錯誤の5年

──入社してからの現場での経験を教えてください。
入社後はずっと、製造現場にいます。今でも現場に立っていることが多いですね。納豆づくりの奥深さを日々実感しています。
前職の食品メーカーでは、乳製品に携わっていたこともあるので、乳酸菌については知識がありました。それが納豆づくりにも役立つと思っていたのですが、全く役に立ちませんでした。
──最も苦労した点は何ですか?
納豆づくり最後の工程であり、最も重要な発酵状態の管理です。入社半年して、この業務を任されるとき、義父である3代目社長から「納豆菌と会話できるようにならないと納豆屋にはなれない」と言われました。当時はまったく意味がわかりませんでした。
心の中で納豆菌に挨拶してみたりもしました。「おはよう、元気?」なんて。でももちろん返事などあるはずもありません。
それでも、天候の変化、季節の移り変わり、大豆の状態、それに応じて変わる納豆菌の反応を、毎日見続けました。失敗も数えきれないほどしましたが、それも含めてすべてが学びでした。
それが5年ほど経ったある晩、ふと納豆が「助けて!」と言っている気がして、夜中に工場に行きました。すると、機械の誤作動で石室の温度や湿度の設定が乱れていたんです。
それからは、「今日の納豆菌は少し元気がない」とか、「今日は調子がいい」というのが肌感覚でわかるようになりました。これが「会話」なんだと思います。
でも、まだまだ3代目には到底及びません。経験を積み重ねてこそ、より納豆菌と対話ができるのだと思います。
取れてしまった「日本一」の賞。そこから約10年の苦労

──「日本一の納豆」を目指すことになった経緯を教えてください。
実は入社した年に、ビギナーズラックで日本一の賞が獲れてしまったんです。そこで「納豆なんて簡単なものだ」と勘違いしてしまいました。
しかし、大変なのはそれから。10年くらいまったく賞が獲れませんでした。悩み続けて気づいたのは、社員との意識の統一ができていなかったということです。また、社員の定着率の低さも問題でした。
そこで、2015年から年に1回、社員一人ひとりと1対1で面談する場を設けるようにして、吸い上げた内容を、業務改善や個々の状況に合わせた働き方の調整に反映するようにしました。
併せて、朝礼を行うようにし、その日の目標や課題を全員で共有するようにしました。以前は鑑評会へ出品していることすら社内で知られていませんでしたが、「日本一の納豆を作る」という目標を、自分だけでなく全従業員の共通目標にしていきました。
その結果、2015年に主力商品「国産大粒つるの子納豆」(現「つる姫納豆」)が最優秀賞の農林水産大臣賞に輝き、日本一になりました。鑑評会では、市販品の中から状態の良い納豆を出品するので、日ごろの努力が認められた気がしてうれしかったです。士気が高まったことで、徐々に長く働いてくれる社員も増えていきました。
──社員との関係づくりのほかに、何か取り組まれたことはありますか?
設備投資を進め、機械化にも着手しました。納豆のパックを自動でコンテナに入れる機械を導入し、ラベルを巻く機械にパックを入れる作業を自動化することで、効率が上がりました。
さらに、ブランディングも兼ねて、2022年にそれまで1台しかなかった下から蒸気を送ることができる大豆の蒸し釜を全4台その釜に入れ替えました。
それまで「せいろ蒸し」と謳えるのは「国産大粒つるの子納豆」を含む一部製品のみでしたが、全商品「大江戸せいろ蒸し」とアピールできるようになり、営業もしやすくなりました。
若い世代へ「菅谷の味」を継承
──今後の課題はありますか?
最大の課題は後進の育成です。納豆づくりは面白いので、ついつい自分で全部やりたくなってしまうのが正直なところではありますが、もし私が倒れてしまったときに、発酵管理ができる人材が社内にいないという状況は良くないと思っています。
菅谷食品の味をずっと続けていくためにも、技術承継の体制を整えていく必要があります。そのためには、オールマイティー化を図ることが重要だと考えています。
一人の職人が全てを担うのではなく、組織として技術を共有し、継承していく仕組みづくりをしていかなくてはいけません。
──今後の菅谷食品について教えてください。
国内だけでなく海外展開も視野に入れています。英語が堪能な営業担当社員が、英語版のホームページを作成しました。まだ少量ですが、日本の商社と組んで台湾への出荷もしています。
2020年に後継者不在だった甘納豆メーカーをM&Aで取得したのですが、そこの主力商品「どらいなっとう」は賞味期限が長いので、海外展開に活かせるのではないかと考えています。
しかし何より大切なのは、お客様に喜んでいただける納豆を作り続けること。私が味わって感動した、あの菅谷食品の味を、これからもずっと多くの方に届けていきたいと思います。
これからも、品質にこだわりながら日本一の納豆を目指して取り組んでいきます。
関本真嗣氏プロフィール
有限会社菅谷食品 専務取締役 関本 真嗣 氏
1976年、東京都生まれ。東洋大学卒業後、2000年に食品メーカーに入社。品質管理職として勤務した後、2005年に現在務める有限会社菅谷食品に入社。2016年に専務取締役に就任。国産大豆100%にこだわった製品づくりを続けている。就任後は特に品質管理体制の強化に注力し、全国納豆品評会で最優秀賞を受賞。また発酵技術の伝承を目的とした社内研修制度を確立し、若手職人の育成にも力を入れている。2023年からは海外展開を視野に入れた市場調査も開始し、日本の発酵文化を世界に広める取り組みを始めている。
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