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110年続く企業に35年ぶりの新入社員 「日本の激動とともに歩んだ会社、このまま終わらせていいのか」家業を継いだ4代目の息子

1912年創業の株式会社田渕鉄工所(大阪市)。銭湯のボイラー修理から始まり、高度経済成長期には工業製品の製造へと事業を発展させてきた老舗企業だ。しかし35年間も新規採用がなく、高齢化と事業継続の危機に直面していた。そこへ、他社の人材業界で活躍していた4代目の息子・寺垣雄平氏(32)が、結婚を機に入社。日本の激動期を支えた家業の歴史を初めて知り、「このまま終わらせていいのか」という思いで事業承継を決意した。110年以上続く企業を承継する覚悟を、寺垣氏に聞いた。

銭湯から工業製品へ拡大、時代と共に歩んだ112年

1912年創業、田渕鉄工所の木製看板。大阪市西淀川区(写真提供:株式会社田渕鉄工所)

──御社の歴史について教えて下さい。

1912(明治45)年の創業です。タイタニック号が沈没し、第一次世界大戦が始まる2年前です。

初代の田渕氏が個人で経営する形でスタートしました。当時の事業内容は、街の銭湯にあるボイラー、いわゆる燃やすための窯や機械の修理が中心でした。

――現在の経営者一族ではない方が創業されたのでしょうか?

はい。その後、現在の寺垣家の初代にあたる2代目が事業を引き継ぎ、徐々にボイラー修理だけでなく工業製品の製造にも携わるようになりました。高度経済成長期には大手企業との取引も始まり、事業は大きく成長しました。

──3代目、4代目の時代はどのような事業を行っていましたか?

私の祖父にあたる3代目の時代には、完全に工業製品製造にシフトし、タンクや配管など、工場で使用される大型設備の製造を手がけるようになりました。

しかし、バブル崩壊後は、徐々に業績が下降。父である4代目が入社した頃には、新規製造よりも既存設備の整備やメンテナンスが中心となっていきました。

──歴史ある家業なのですね。

3代目の祖父の時代には、米軍が工場に視察に来ることもありました。戦後の高度成長期、日本の製造業が世界に認められていく時代の象徴的な出来事だったと聞いています。

先代たちは時代の大きな変化の中で、その都度、新しい挑戦をしてきた。その精神は今も会社のDNAとして受け継がれていると思います。

家業は「ネジ屋さん」なのかな

田渕鉄工所の工場内の様子(写真提供:株式会社田渕鉄工所)

──子どもの頃から家業を継ぐことを意識してきたのでしょうか。

全く意識していませんでした。父は家では仕事の話をほとんどしないので、私は工場の詳しい事業内容すら知りませんでした。

唯一の記憶は、年末の大掃除に工場に遊びに行って、在庫のボルトやネジを見かけたこと。それで「うちはネジを作っている会社なのかな」という漠然としたイメージを持っていただけでした。

──就職時にも家業の話は出なかったのですか?

大学卒業時、1度だけ継いだほうが良いか聞いてみたんですが、「自分の好きにしなさい」と言われました。当時は全く興味がなかったので、そのまま東京で就職しました。

──東京ではどんな仕事をしていましたか?

最初は広告関連の会社で営業職として働き、残業も深夜までという非常にハードな環境でした。その後、人材系の会社で採用担当として働き、採用する側の視点も経験しました。また、個人事業として人事関連の仕事をしていたこともあります。

「経営が難しいから」歴史ある会社を畳んで良いのか? 

──家業を継ぐことを意識したきっかけは何ですか?

2023年に結婚したことがきっかけでした。その時に「長男なので親の近くにいた方がいいのかな」と考え始めました。

実は父から「会社は畳もうかな」という話も聞いていて、気になっていました。そして2023年の年末に、初めて詳しく家業の話を聞く機会があり、100年以上も続いている会社だということを知りました。

「このまま終わらせていいのか」という思いが強くなり、2024年5月に大阪への引っ越しが落ち着いたタイミングで入社を決意しました。

ただ、100年という歴史の重みに圧倒されました。日本の激動の歴史と共に歩んできた会社を、単に「経営が難しいから」という理由で終わらせていいのか。夜も眠れないほど考えました。

35年ぶりの新人入社、ゼロからの学び直し

──入社時の会社の状況はどうでしたか?

社員も少ない小規模な会社でしたが、35年間新規採用がなく、最年少でも57歳という状況でした。経営状況も芳しくなく、社員のモチベーションも低下していました。

──そのような状況でまずは何をしましたか?

既存の案件の引き継ぎや、職人が現場に行く際の監督、補助作業などを担当しました。しかし、基本的な専門用語すら分からない状態。「ボルト」という言葉の意味も理解できず、職人さんとのコミュニケーションに苦労しました。

──どのように経験を積んでいきましたか?

とにかく、製造業や鉄鋼業界の研修に積極的に参加しました。実際にモノ作りの現場を見て、その仕組みを理解していくうちに、「物ができていく過程って見ていて面白いな」と感じるようになりました。

──職人さんとのコミュニケーションで、心に残るエピソードはありますか?

ある時、「ボルト」という言葉の意味が分からず、素直に「ボルトって何ですか?」と職人さんに聞いたんです。すると「ボルテアだよ」と返ってきて、さらに分からなくなってしまいました。

でも、その職人さんは私の表情を見て気づいたのか、実際の部品を手に取って、「こうやって回すと止まるんだよ」と、まるで子どもに教えるように丁寧に説明してくれました。

みなさん口下手に見えて、実は教えることに慣れていないだけなんです。35年間新入社員がいなかったわけですから。そこから、分からないことは素直に聞く、でも聞き方を工夫する、という姿勢を心がけるようになりました。

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寺垣雄平氏プロフィール

株式会社田渕鉄工所  寺垣 雄平 氏

1992年、大阪府生まれ。大学卒業後、広告会社に入社。その後、人材系会社で採用担当を経験。2024年に現在勤める田渕鉄工所に入社。112年続く老舗鉄工所の5代目承継予定者として、デジタル化推進や採用改革に取り組んでいる。同社は1912年(明治45年)創業。銭湯のボイラー修理から始まり、高度経済成長期には工業製品製造へと事業を発展させた。現在は工場や設備のメンテナンス、製品製造を手がける。35年ぶりとなる新規採用や働き方改革に着手している。「鉄工×人材」をキーワードに、新規事業の展開も視野に入れ、小規模ながら次の100年に向けた挑戦を続けている。

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