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学術肌の若き杜氏が大奮闘。誰も酒が造れない日本酒メーカーの事業承継ストーリー

ヤマタノオロチ伝説が生まれた神話の里、出雲は日本酒発祥の地とも言われ、古くから酒造りが盛んな場所だ。長い歴史と伝統等が積み重ねられた老舗の酒蔵を受け継ぐのは若き杜氏。これを支えるのは、560年を数える歴史を持つ島根の豪族の25代目当主だ。島根県の造酒屋 田部竹下酒造の代表取締役社長兼蔵元の田部 長右衛門氏と、杜氏/常務取締役 濵崎 良太氏が語った。

杜氏不在の酒蔵が事業承継。日本酒は誰が造るのか

株式会社田部竹下酒造 杜氏/常務取締役 濵崎 良太氏

田部竹下酒造は、総理大臣も輩出した老舗の酒蔵だ。その名称には田部家、竹下家の関わりが見受けられる。

その由緒ある酒蔵で杜氏を担うのは、いずれの苗字とも異なる、濵崎 良太氏だ。

 「私は親族ではありません。出身は福岡で、島根には、縁もゆかりもまったくないのです。実は、田部家が竹下家から事業承継して、日本酒を造ることになったのですが、そのときに造れる人がいなかったのです」(濵崎氏)

歴史ある日本酒の造酒屋が事業承継をしたものの、造ることのできる人がいない。では誰が造るのか、声がかかったのが濵崎氏なのだという。

竹下 登元総理大臣の生家に酒造免許を譲渡、150年後に返納

歴史を振り返ろう。田部竹下酒造がある島根県雲南市掛合町は、竹下登元総理大臣の地元だ。田部竹下酒造はその名にある通り、竹下氏の生家なのだという。

田部竹下酒造のある場所こそが、竹下一族の本家であり、酒蔵には竹下登記念館が併設されている。

竹下家は300年続く旧家。地域の名士だった田部家とは、長年にわたり深い関係にあったという。

 「もともと、江戸時代まで田部家は2つの酒蔵を持っていました。そこで田部家は150年ほど前、江戸時代末期に酒造免許を竹下家に譲渡したのです」(濵崎氏)

その後、竹下家は酒造免許をしっかりと守り続けていった。やがて、約150年の年月を経て、承継のときを迎える。

 「2022年、約150年ぶりに元サヤに戻ることになったのです。名称には『竹下』も残し、田部竹下のダブルネームになっています。酒蔵の事業承継では、まったくの異業種から参入するという事例も見受けられますが、私どもには、歴史とストーリーがあるのです」(濵崎氏)

竹下家は、150年にわたり守ってきた酒蔵と蔵元の名を再び田部家に戻すことにしたのだろうか。

「やはり後継者が不在だったことが大きな理由だったと思います。酒造りを受け継ぐ人がいなかったようです。一方の田部家は、たたら製鉄で財を成した名家です」(濵崎氏)

たたら製鉄とは、日本刀の素材である玉鋼を作るなど、日本古来の製鉄法だ。

田部家は室町時代からこの地でたたら製鉄を始め、財を成した一族。現在の当主は25代目、田部 長右衛門氏だ。同氏が田部竹下酒造の代表取締役社長兼蔵元を務める。

 「酒蔵の他にも、地元テレビ局の社長、商工会の会頭など、いろいろな仕事をしています」(濵崎氏)

田部 長右衛門氏は、山陰中央テレビジョン放送をはじめとするTSKグループ、そして建設業、林業から飲食業まで幅広く事業を展開する田部グループという2つの企業群を率いている。

 「過去にさかのぼると、たたら製鉄に取り組み、その後は林業など、時代の変化に合わせて、さまざまな事業にあたってきました」(濵崎氏)

現在も幅広い事業を展開しているものの、酒造りに精通した人材がいないなか、なぜ再び竹下家から酒造りを引き継ごうと考えたのだろうか。

 「やはり、お酒が好きだったことが大きな要因のひとつだと思います。また、酒造会社は地域産業の基盤になる部分もあるため、これを守っていきたいという考えもあったのだと思います」(濵崎氏)

大学院で微生物を研究し、酒蔵で日本酒造りを修行

新たな酒蔵の未来を背負う、田部竹下酒造の若き杜氏 濵崎 良太 氏

濵崎氏は福岡県出身で、岡山大学大学院に進み、酒造にも欠かすことのできない微生物の研究に取り組んできた。

 「大学院では鉄や硫黄を食べる細菌である『鉄酸化細菌』の研究をしていました」(濵崎氏)

鉄酸化細菌は鉄イオンからエネルギーを生成する細菌。その専門的な知識は幅広い分野で生かせる、大きな可能性を持っている。なぜ酒造りの道を選択したのだろうか。

 「自分はアカデミックに残りたいという気持ちがあったのですが、なかなか席がありませんでした。狭き門なのに自分よりもすごいエリートが多く、到底無理だと思ったのです。学生の頃は、ずっとラグビーをしてきたので、酒造りなら体力も生かせるだろうと感じました」(濵崎氏)

さまざまな酒のなかから、日本酒造りを選んだのは、どんな理由があったのだろうか。

 「ワインなど世界中のさまざまな酒のなかでも、日本酒造りは最も難しいもののひとつと言われています。それほど難易度が高いのなら、ぜひチャレンジしてみたいと思い、日本酒造りの世界に入ったのです」(濵崎氏)

同氏は岡山の酒造会社で6年間、愛知の酒蔵で3年間の修行をした。

 「自分の力を生かせるのならば、全国どこの蔵でもよいから、酒造りの腕試しをしたいと思い、杜氏仲間にも相談していたのです。ある杜氏の方から『お酒造りを始めるみたいだから、ちょっと行ってこい』と声をかけられたのです」(濵崎氏)

後にたどって聞いてみたところ、同氏に声をかけた知り合いの杜氏までに、およそ5人も経由していたそうだ。

 「遠いですよね。蔵元としても、事業承継したのはよいものの、杜氏探しから始めなければならなかったというのが現実だったようです。そこで、いろいろ声をかけ、巡りめぐって私のところに届いたようです」(濵崎氏)

島根の夏の海を思わせるキラキラとすっきりした味わいの日本酒

ところが、竹下家では長い間、酒造りをしておらず、施設は老朽化し、ノウハウも残ってはいなかったという。同氏はまさにゼロから酒造りを始めることになる。

 「こんなところで酒造りができるのだろうかという環境でした。正直に言うと、どうしようかなとも思いました。ただ、自分でゼロから造れるので、やりやすさもあります。当時の味を再現してほしいと言われたら、その方が難しかったでしょう」(濵崎氏)

どんな酒にするか、蔵元から難題が出されたという。

 「日本酒を造ったこともありませんし、蔵のことも杜氏さんのことも分からないところからスタートし、私も悩みました。その当時、私が濵崎杜氏に話したのは、香りがぶわっと来て、その後に後味がしゅーっと。そして、ふーっと奥まで行って着陸していく、余韻の長いイメージでした」(田部氏)

最終的に決まったのは、島根の象徴である夏の日本海を思わせる、キラキラとすっきりした味わいの日本酒。濵崎氏はそのイメージを目指して醸造を始めた。

 「私は製造の人間なので、グルコースが何%で、こういう香りの成分がこのくらいにしたいと蔵元に言ったのです。しかし、それではまったく分からない、消費者にも伝わりやすい形で表現してほしいと返されました。そこで、島根に来て見た、きれいな自然などをイメージした酒を造りたいと伝えたのです」(濵崎氏)

イメージに沿って、おいしい日本酒を造り上げていく。そのプロセスではどのようなことをするのだろうか。

 「その年によって、気温も米の性質も違います。状況を考えて麹を強くしたり、米に吸わせる水の量を変えたり、微調整していきます」(濵崎氏)

こうした努力の末、誕生したのが酵母901号と酵母1801号を使った2つの「理八」だ。異なる2種類の酵母を使った。

 「試験醸造で、酵母を前面に出したブランディングをしようと思いました。異なる酵母4つを使った日本酒を地元の方にも試飲していただき、最終的に残ったのがこの2種類です。酵母901号と酵母1801号ではまったく味が違いますし、飲み比べができるのも好評です」(田部氏)

 「酵母は酒の香りのほぼ100%を決めています。私はフルーティーな香りをとても大切にしており、その表現のために2種類の酵母を採用しました」(濵崎氏)

酒蔵が生まれ変わって2年。杜氏と蔵元の思いを詰め込んだ2つの日本酒が製品化。日本酒造りは次の時代へと受け継がれた。

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