京都で人気の焼き肉チェーン、「うちに入るな」と反対されても入社した2代目 「私の感性は遅れていくから」と継がせた創業者

京都を中心に、「焼肉やる気」のほか、「カルビ丼とスン豆腐専門店韓丼」や「フレンチ酒場銀次郎」など新しい業態の店舗を展開し、焼肉店の可能性を追究する「やる気グループ」。時代のニーズに応えながら、若い女性やファミリー層まで幅広い客層を楽しませる飲食チェーンとして進化を続けている。「うちに入るな」という両親の反対を押し切ってコロナ禍に家業に入り、事業承継した2代目大島幸士代表。なぜ、創業者の理念を継ぐ決意をしたのか。その思いを聞いた。
目次
個人店から出発、食べ放題をいち早く導入

---会社の歴史について教えてください
創業年は1987年。父と母が個人事業として焼肉店を作ったのが会社の始まりです。当時の焼肉は高級で、特別な日に行くイメージだったのを、「リーズナブルに食べて欲しい」という思いで1店舗、2店舗と開店し、人気を集めました。
狂牛病に苦しめられた時期もありつつ、いち早く食べ放題も取り入れて店舗数を増やしていったようです。今は、87店舗、社員は64人、パートナー従業員も約600人にまで増えました。
女性同士で行きやすいおしゃれな肉バルや、お手軽に食べられる「ひとり焼肉」、カルビ丼とスン豆腐の専門店「韓丼」など、これまでにない新しい業態に次々挑戦してきた会社です。
時代の変化を見て、お客様が「今」求めているものを作る、というのが両親の考え方で、弊社の考え方。基本的な思想である「いいものをお手頃に」が「やる気」の心意気で、社員全員が認識しています。
---幼少期は家業をどのように見ていましたか
両親が焼肉屋を経営しているのはもちろん知っていたし、家族で店にも行き、「味はどうだ?」とよく聞かれていました。
ただ、仕事の話はほとんどされず、自分の人生と焼肉屋は、つながっていませんでした。家業を継ぐ、という気持ちは全然なかったですね。
家業について唯一両親から聞かされていたのは、「会社には絶対入るな」ということでした。理由は、会社経営は大変だから。「自分の子には、こんなに大変な思いをしてほしくない。普通に働きなさい」と言われていました。
両親は二人で会社を立ち上げて、ずっと働き詰め。帰宅して玄関で横になっている姿も見ていて、確かに大変だろうとは思っていました。
私たちを育てながらあれだけのことをやってきた両親に尊敬の念がわいてきたのは、ずっと後のことで、自分が経営者になったタイミングでした。やっと、その大変さと苦労がわかりました。
入社の意向を告げても「やめなさい」

---高校や大学時代には、飲食業界で働く気持ちはあったのでしょうか
大学生の頃は、家業とは別の焼肉店やどんぶりチェーン、大手外食チェーンなどでアルバイトをしていました。卒業後は漠然と人にものを販売する業界に行きたいと考え、小売の会社に就職しました。
ところが実際に社会人として働いてみると、「やっぱり外食をやりたいな」と思うようになったのです。大学時代のアルバイトの方が面白かったんです。
小売業で真剣に仕事をしているけれど、「楽しいか」というと、「もっと楽しいことがある」と思えました。
これまでの人生での幸せな時間を考えると、それは、おいしいものを食べているときであり、自分が提供したサービスや料理でお客様に「ありがとう」「おいしかった」と言ってもらえたときだった。「食」で人を幸せにしたいし、そこで勝負していきたいなと思いました。
---やる気に入社したきっかけや、そのときの先代の反応は
外食業で働くと考えた時、どうせなら自分を育ててくれた人たちに恩返しをしたいと思いました。昔から、両親には「あなたが学校に行けるのも、ご飯を食べられるのも、家があるのも、みんな従業員のおかげ。だから感謝しなさい」と何度も言われていたのを思い出しました。
社会人になって、お金の価値がわかってきて、彼らが必死で働いたおかげで今の自分があると実感したことで、両親の言葉の意味が理解できたのです。
入社したいと両親に伝えると、「やめなさい」と反対されました。「ほんまにしんどいから。今せっかくちゃんとした会社入っているんだから、そこで安定したキャリアを積んだらいい」と。
あきらめきれなくて、「どうしてもやりたい」と思いの丈を伝え続けると、「ほんまに覚悟ができているのか。中途半端な気持ちじゃなくて、ほんまに人生をかけられるのか」と確認されました。
「めっちゃ止めるやん」と思いましたが、気持ちは変わらず。最後は、「そこまで言うんやったら、もうわかった」と折れてくれました。
コロナ禍の入社「一番いいとき」そのわけは?
---入社したとき、会社はどんな状況だったのでしょうか
入社したのは2020年で、新型コロナの感染が拡大した年でした。だから、コロナが「同期」です。街から人が消え、飲食業には閑古鳥が鳴き、店舗にお客さんが来なくなって不安でいっぱいでした。
しかし、父は「1番いいときに入ったな。ここから良くなるだけやから」と言いました。確かに、上り調子で入ってしまうと、厳しいときの対応ができない。「この時期に入れたのはすごいチャンスで、ここを乗り越えられたら、今後の人生はどこでも乗り越えられる」と励まされました。
社員の方々は温かかったです。皆さん会社が好きで、商品にすごく誇りを持っていました。正社員ではないパートナースタッフの方たちも、同じように「うちは日本で1番」と口を揃えて言う。これはすごいなと思いました。
自分が次期社長だという感覚はそれほどなかったけれど、「とにかく会社を良くしていければいい」と思いました。
コロナ禍であっても、きっと特別な食事が食べたいという需要はある。外食に行きたくなくなったのではなく、来られなくなっただけ。そこで、テイクアウトに目をつけ、店舗に長くいなくてもいいように、モバイルオーダーのシステムを急ピッチで入れました。
「あんたが社長をやりなさい」
---事業承継はどんなきっかけだったのでしょう
入社3年くらいで、突然父に言われました。「あなたが社長をやりなさい。もうできるから大丈夫。ずっと見てたから」と。父は、私にだけとても厳しく、職場で強く叱られることもあったので、その打診にはびっくりしました。「いや早すぎる、嘘やろ」という気持ちでした。
今思うと、あれだけ厳しかったのは、ある意味英才教育だったのかもしれません。まだ甘いし不完全だけど、あえて完璧な状態に仕上げずに継がせたかったのでしょう。
失敗しにくい状態で事業承継してしまうと、失敗したときに立ち上がれないので、そこはしっかり計算してくれていた。父はきっと、私が若い時に経営者として失敗して、乗り越える経験までしてほしかったのだと思います。
「60代の自分が社長をやるより、若い感性を持ったあなたが社長やった方がいい」と父は言いました。「今後、自分の感性は、時代よりも遅れていくだろう」と考えていたようで、そこの先読みもできているんだなと感じました。
---事業承継したときの心境を教えてください
「社長を渡される」となったときの責任感はすごかったです。というのも、父からは「会社をつぶしてもいい」と言われたのです。
「親に気を使って、『会社をつぶさんように』と思うな。自分が正しいと思った道を進んでやりきりなさい」と。
けれど、私はまだ30代。プレッシャーを感じたし、正直「それはキツイ」と思いましたね。創業者にとって、きっと自分の会社は、子どもみたいなもの。それなのに任せてくれたのですから、重かったです。
(取材・文/小坂綾子)
大島幸士氏プロフィール
株式会社やる気 代表取締役社長 大島 幸士 氏
1993年、京都府生まれ。慶應義塾大学卒業後、小売会社入社。2020年、父母が創業した株式会社やる気に入社。入社後すぐに情報システム室を立ち上げ、コロナ禍対応を進めるとともに、社内のデジタル化を推進。同時に、店舗営業部門、フランチャイズ事業部門を統括しつつ、コロナ禍に対応した新業態開発にも着手。また、企業の人材開発力を高めるために、労務環境の整備、評価制度の構築、新卒採用の強化にも力を注ぐ。創業35年の節目となる2023年5月代表取締役社長に就任。事業承継によって新たな第二成長期を構築すべく、新しいこれからの時代に合った経営理念の言語化にも着手。次の時代に合った新しいフードビジネス企業を目指して、日々リーダーシップを発揮している。
\ この記事をシェアしよう /







.png)











