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「あぶらとり紙」に依存した体質を変革へ、京都の「よーじや」 「苦労知らずの跡継ぎ」と見られていた3代目の苦悩と改革

あぶらとり紙で知られた、創業120年の老舗化粧品雑貨「よーじやグループ」。多くの観光客が訪れる京都にありながら、「脱・観光依存」を掲げ、新たな価値創造を目指して経営の多角化に乗り出している。改革の原動力になっているのは、5代目の國枝昂代表取締役の「逆境」体験だ。老舗の跡取りならではの苦労と、家業への思いを聞いた。

1990年「あぶらとり紙」が大ヒット

新キャラ「よじこ」グッズが並ぶよーじや店頭(写真提供:よーじやグループ)

――会社の歴史について教えてください

1904年に國枝商店として創業しました。社名の由来は、現在の歯ブラシを指す「楊枝」を扱っていたことからきています。口腔衛生用品のほか、時代の必要なものを商材として仕入れていく会社で、アクセサリーやネクタイなども扱う雑貨屋のような商売を続けていました。

これまでの看板商品だったあぶらとり紙は、もともと複数ある商材の1つで、100年前から舞台役者さんらの需要があったため扱っていました。

1990年、テレビドラマがきっかけで人気に火がつき、観光客に購入されるように。入場規制が必要なほど人気が出て、「あぶらとり紙やさん」として知られるようになりました。ブームが起こったのは祖父が亡くなった数ヶ月後で、当時は父が代表を務めていました。

――幼少期は、家業にどのような印象をもっていましたか

一人っ子だったので、物心ついたときから、家業とは切り離せない見方をされて生きてきました。

大人からも子どもからも「よーじやの跡継ぎ」「苦労知らず」と言われ、人間のブランド思考の根幹を人生で学びました。「おいしいから食べる」ではなく「有名だからその店に行く」みたいなロジックを経験してきましたね。

嫌だったのは、塾の先生からも「よーじやの息子」としての言葉を浴びせられたことです。京都の老舗の跡継ぎは、ほぼ同志社系列の学校に行くイメージがあるので、「同志社行くんでしょ」と言われ、勝手にストーリーを描かれました。自分の気持ちを言葉で説明して分かってもらうのは、非常に難しかったです。

「跡継ぎ」のイメージを払しょくするために

よーじやグループ 代表取締役 國枝 昂 氏(写真提供:よーじやグループ)

――家業を継ぐという意識はいつ頃からありましたか

小学生の時は深く考えず、中学時代は元プロ野球選手の松井秀喜氏が大好きだったので、番記者になりたいと思った時期がありました。

家業を継ぐことになるだろうと思ったのは、高校生くらいです。会社が続く以上は、おそらく私のところに回ってくる。そう思いつつも、「将来が決まってるから、お前は勉強しなくてもいいやん」などと何気なく言われるのは嫌でした。

京都にいると、みんなが思い描く「よーじやの跡継ぎ」を覆せない。そこで、京都以外の大学に行くことにしました。一旦は早稲田大学に入学したけれど、私立だと「実力で入ってないんじゃない」と言われるかもしれないと思い、大阪大学に入学し直しました。国立だったら実力で評価される。当時の自分は、とにかく真っ当な評価をされたかったのです。

大阪大学に決めたのは、京都から離れると、いつか訪れるよーじやとの関わりにマイナスになるかもしれないと思っていたからです。ただ、事業承継は親次第。自分で意思決定できないので、一般就職は厳しいと感じていました。

入って半年後に辞めなきゃいけない可能性もあるし、何年も先になる可能性もある。そこで、公認会計士試験に合格し、大手監査法人に入社しました。誰でも受けられるので。フラットな環境でただ受験をクリアすれば受かる。要するに、「よーじやの跡継ぎ」の部分を排除した評価ポイントを作りたい人生でした。

――よーじやを継ぐことに、楽しみな気持ちはなかったのでしょうか

なかったですね。私が継ぐまでの間、父親と具体性のある話し合いは1回もしていません。「子どもの頃に会社の従業員に可愛がられた」などのエピソードもない。

社員も番頭さんの名前くらいしか知らず、数字を見ているわけでもない。たまたま金閣寺の前を通って金閣寺店ができたことを知り、祇園にカフェができることを人から聞くような状況でした。

「後継ぎ」は、ネガティブなイメージで見られる傾向にあるし、評価は親より下。親が作った土台にのっているという前提が、どんな時代背景でも崩れない。

どうすれば、「後継ぎだから」というイメージ評価を超えてフラットに評価されるのか。「後継ぎじゃなくなる」ポイントはどこなのか、わかりかねていました。

衰退する「あぶらとり紙」、倒れた父

――入社のきっかけと、代表に就任した経緯について教えてください

30歳を目前にした2019年8月に入社しました。その1年ほど前、中堅の男性社員から「話を聞いてほしい」と言われ、社内の環境が想像以上に悪いことを知りました。

「とにかく未来を感じない」「ハラスメントがひどく、離職率も高い」「戻ってきてほしい」と言うのです。

あぶらとり紙ブームに乗って入ってきた当時の上層部は、「責任がなく権限がある」という状況。会社を良くしていこうとか、社員を生かそうという発想がなかった。

あぶらとり紙の売上は20年間で1/4になり、成長期は過ぎて衰退期に差し掛かっているタイミングなのに、対応していない。ヘルプを受け、求められる感覚になり、入社を考えました。

会社の経理担当に「経営状況を教えて欲しい」とお願いしても長年拒否され続け、交代を視野に入れてようやく確認すると、思っていたより悪かった。「このままだとまずいし、あなたになった方がいい」と周囲から言われ、事業承継を意識するようになりました。

ちょうど公認会計士試験に合格したばかりで、経験を積みたい思いもあって躊躇したけれど、社員から相談があった1ヶ月後に父が倒れたのです。

この機会に戻るしかないと思い、父の車椅子を押しながら、「戻るしね」と伝えました。「株も代表権も、僕が持つ形でやるし」と言うと、拍子抜けするほどあっさり「うん」と言ってくれて、争いもなく話は終わりました。

こだわったのは、入った時から代表権を持つことです。2番手以下で番頭さんとかに気を使いながら物事を進めるのはマイナスだと思っていました。登記上は入社当時から代表取締役で、2020年4月に代表取締役社長になりました。

古参による「無責任な経営体制」を改革

――家業に入ったとき、どのような印象だったのでしょうか

父は社長だったけれど、事実上権限を持ってたのは古参の社員。みんな目的をもってやっていないので、全てがダメだった。そんな状況でも潰れなかったのは、よーじやのブランド力があったからだと思います。

でも、まっとうなやり方で本気で向き合ってる人がいれば、当時のよーじやはきっと、こんなもんじゃなかったはず。そう思うと本当に悔しい。ブームが下火になり、コロナも直撃した状況で事業承継しましたが、その中でもよーじやブランドのすごさは感じました。

立て直すために取り組んだのは、「無責任な経営体制を変えていく」というシンプルなことでした。従業員は会社が信頼できず、未来も感じていない。

この状況下で従業員を大切にする姿勢を打ち出せば、それだけでついてきてくれる。働き方改革が浸透している時代でもあったので、メッセージも従業員に伝わりやすかったです。

当時の社内の指標に合理性がないと確信し、私は一切現場に行かず、修業もしませんでした。世間的には、事業承継の際に「10年修行した方が良い」などと言われるけれど、多くの世間は無責任。イメージにとらわれず、いかに事業計画を合理的に立てられるかを考えて改革を進めました。

従業員の名刺も個人のメールアドレスも電話もなかったので、それらを変えました。月に30万円かかっても携帯電話を支給し、注文を取るのもファックスからメールに変更。従業員の給料は維持しつつ、自分の給料をゼロにして、銀行の信用を得て投資。情論でなく、なぜそれが必要なのか整理して進めていきました。

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國枝昂氏プロフィール

よーじやグループ 代表取締役 國枝 昂 氏

1989年京都市生まれ。大阪大学経済学部卒業後に公認会計士試験に合格し、2019年によーじやグループに入社、代表取締役に就任。「脱・観光依存」を掲げ、「手鏡に映る京美人」のロゴをリニューアルするなど、企業の変革を進めている。

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