壮絶な身内の裏切り、社員の87%がいなくなり全データが破壊された 原発や防衛省にも採用された高技術企業の2代目、ゼロから奇跡のV字回復

駅の売店やショッピングモールで日常的に目にする、横に引いて開ける「横引き」のシャッター。その製造・販売で業界トップクラスのシェアを誇るのが「株式会社横引シャッター」(東京都足立区)だ。2代目の市川慎次郎社長(49)は、かつて身内の裏切りによって会社が崩壊寸前にまで追い込まれた壮絶な過去を持つ。全てを失った状態から、不屈の精神で会社を奇跡的なV字回復へと導いた。事業承継の裏で起きた衝撃の事実と、再生に向けた苦闘の日々について、市川社長に聞いた。
目次
原発や防衛省でも採用される特殊なシャッター

社名の通り、横に引く「横引シャッター」の専門メーカーです。先代社長の父が、従来は上げ下げしていたシャッターを横に開けるよう開発し「横引きシャッター」として特許を取得しました。
皆さんがよく目にするのは、駅の売店やショッピングモールのテナントなどで、閉店後に店内が見えた状態で防犯するタイプのシャッターでしょうか。
でも、その他にも、原子力発電所や造幣局、防衛省、大手自動車メーカーの開発工場など、高いセキュリティや特殊な仕様が求められる施設にも、当社の技術が採用されています。
社員数は現在35名です。決して大きな組織ではありませんが、精鋭たちで北海道から沖縄まで、全国の現場を飛び回っています。売上は横引シャッター単体で3億円強といったところです。
もともとは、一般的な上下シャッターなどを手掛ける「中央シャッター」という会社が母体で、そこから特殊シャッターに特化した横引シャッターが生まれました。
今、自分が親になってみて思うのは、父は良くも悪くも子どもにあまり興味がない人だったということです。
幼い頃の父との思い出といえば、日曜日に家にいる姿か、年に6回ほどあった家族での墓参りくらい。その帰りに美味しいものを食べに連れて行ってくれるのが、数少ない家族のイベントでした。
だからでしょうか、思春期にありがちな父親への反発や反抗期は、私には全くありませんでした。が、自由にやんちゃな時代を過ごしていました。
(髪は金髪、左耳には7個のピアスで、高校は出席日数を計算して行っていました)
ただ、いわゆる「帝王学」のようなものは、物心ついた頃から自然と教え込まれていました。難しい経営理論などではなく、「人の話を聞くときは相手の顔を見なさい」「自分が話すときも相手の顔を見なさい」といった基本的な姿勢です。それが当たり前のこととして育ちました。
社会に出てから、決して当たり前ではないと知り、父の教えがいかに貴重なものだったかを痛感しました。その時は「帝王学」とは微塵も思っていませんでしたが、間違いなく私の経営者としての礎になっています。
強制的に始まった中国留学

―――「社長の息子」として、家業を継ぐことは早くから意識されていましたか?
生まれた時から「社長の息子」だったので、継ぐこと以外考えたことはありませんでした。大学生の頃、同じような境遇の後継者の友人たちと「卒業後すぐに家業に入るか、一度外で修業するか、それとも継がないか」という議論をよくしましたが、私には継がないという選択肢が理解できませんでした。
後継者は、社会人としての勉強と、経営者としての勉強を同時に、しかも人一倍濃密に行わなければならない。外部で道草を食っている時間などないはずだ、というのが私の持論でした。
でも実は、高校生の時までは少し道をそれていました。将来を決めかねてフラフラしていた私を見かねた父に、ある日「ここにサインしろ」と一枚の紙を渡されたのです。
何だかよく分からないままサインをすると、「お前は高校を卒業したら中国の大学へ行くことになったから、パスポートだけ取っておけ」と。当時、中国に合弁会社があったのですが、父は現地の通訳が本当のことを伝えているか疑問に感じており「通訳は身内で固めたい」という考えがあったようです。
こうして半ば強制的に始まった留学生活でした。当時の中国はまだ北京オリンピックも決まる前で、発展途上のカオスな雰囲気がすごく楽しかった。
物価は安く、親からの仕送りはある、そして何より親の監視がない。こんな天国はないと思いました。結局、当初3年間の語学研修の予定だったのが、それではもったいないと現地の大学を受験・編入し、計5年半も滞在してしまいました。
父の死、そして始まった裏切りと乗っ取り
―――お父様が亡くなられた後、事業承継はスムーズに進んだのでしょうか?
2012年、父が亡くなった後、ここからが悪夢の始まりでした。カリスマ経営者だった父の跡を継いだのは、ある身内だったのですが、社長の椅子に座った途端、人が変わったように振る舞い始めたのです。
私は中国から帰国後、父の元で経営の実務を叩き込まれ、No.1を支える「軍師」のような存在でありたいと考えていました。実際に父が亡くなる前から、会社経営の大部分は私が担っていました。
しかし、会社を継いだ人物は営業一筋で、経営の全体像が見えていなかったのでしょう。私が会社を実質的に取り仕切っていることが気に入らなかったようです。
父が亡くなった時に、残された私たちは「5年間は先代がいた時と何も変わらない経営をする」という約束を交わしました。
カリスマ経営者が突然いなくなったことで、外部から会社が揺さぶられることを何よりも恐れていたからです。しかし、その約束はあっさりと破られました。
彼は、私を会社から追い出し、会社を計画的に倒産させ、顧客もろとも別会社で事業を乗っ取ろうと画策していたのです。
当時の顧問弁護士も巻き込み、着々と準備を進めていたようです。その策略にはまり、私は一度会社を追い出されることになりました。
すべてを失った日、ゼロ以下のリスタート
―――会社を追い出された後、どのようにして代表権を取り戻したのですか?
会社を乗っ取ろうとする彼らの動きは、私が会社からいなくなったことで加速しました。しかし、幸いにも私は株主としての権利を保持していました。そこで、臨時株主総会を開き、代表権の交代を求めるという手段に出たのです。
もちろん、すんなりとはいきません。会社に近づこうものなら警察を呼ばれる始末で、まさに異常事態でした。それでも、最終的にはこちらの正当性が認められ、なんとか代表権を取り戻すことができました。
しかし、安堵したのも束の間でした。会社に戻ってみて、私は言葉を失いました。そこは、もはや会社の体をなしていませんでした。
全ての契約書や図面、経理書類はシュレッダーにかけられ、75リットルのゴミ袋が11袋も積み上がっている。道具や材料は根こそぎ持ち逃げされ、持ち運べない機械やパソコンはすべて物理的に破壊されていました。データも全て消去され、復旧業者を呼んでも完全には元に戻りませんでした。
「火事で全焼した方がまだマシだ」心からそう思いました。何もかもがめちゃくちゃにされ、86名いた社員は、私を含めてわずか11名にまで減っていました。まさに、ゼロ以下からのリスタートでした。これが私の経営者人生における、最大の「黒歴史」です。
―――まさに絶望的な状況ですが、再生への第一歩はどこから始まったのですか?
再生の第一歩は、お客様からのお叱りの電話を受けることから始まりました。「今日、現場に入る予定だったのに、なぜ来ないのだ!」と。
受注・発注のデータが何一つ残っていないので、お客様から事情を聞き、以前こちらが送ったはずの図面をメールで送り返してもらい、それを見ながら手探りで製品を作るしかありませんでした。もちろん、代金はすでに9割方支払われているような案件ばかりです。
当然、大手ゼネコン各社からは次々と呼び出しを受け、事情を説明して頭を下げる日々が続きました。あるスーパーゼネコンには決算書を3期分持参し、全てを正直に話しました。
すると「事情はわかった。だが、信用できるかどうかは別問題だ。まずは40万円の仕事からやってもらおう。それが無事にできたら次は80万、その次は200万……」と、まるで試すかのようなお試し受注が始まったのです。その時の悔しさは、今でも鮮明に覚えています。
取引先からは「ひどい話だな。だが、お前の会社も本当に大丈夫なのか?」と厳しい言葉を投げかけられました。最初は「なぜ私まで同じように見られなければならないのか」と憤りを感じました。
でも、すぐに気づきました。世間から見れば、すべて「横引シャッター」の内輪揉めにすぎない。お客様が知りたいのは、私の会社が約束通りに良い製品を納められる、信頼できる業者なのかどうか、ただそれだけなのだと。
この時から、私は自分の正当性を主張することをやめました。「言葉ではなく、実績と結果で証明するしかない」そう固く心に誓ったのです。
(取材・文/斉藤カオリ)
市川慎次郎氏プロフィール
株式会社横引シャッター 代表取締役 市川 慎次郎 氏
1976年埼玉県生まれ。株式会社中央シャッター、株式会社横引シャッター代表取締役。大学卒業後に株式会社中央シャッターに入社し総務部部長・経理部部長を兼任、当時9億円を超えていた負債を圧縮。現在は先代社長の遺志を受け継ぎ、地域とのつながりを大切にする着実な経営で安定した業績を残す。駅の売店に多く採用されている横引きシャッタ―の普及や定年のない雇用、がん患者が働ける職場づくりを実現させたことで知られ、こうした実績に基づく講演などを各地で行う。著書に『新入社員は78歳 小さな会社が見つけた誰もが幸せを感じられる働き方 働きがいがあるから、会社も人も成長する!』(かんき出版)などがある。
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