COLUMNコラム
「お前がやれ」会社で最年少29歳、突然の社長就任/東京進出を進めたら、地元・大阪のベテラン社員が離反~日本広告企業【前編】
電車内や駅などに掲げられた「交通広告」、ビルや道路サイドの「屋外広告」。こうしたロケーションメディアの老舗企業・日本広告企業(本社・大阪市)の日根野谷裕一社長は、前社長だった祖父が急逝し、29歳で会社を引き継いだ。若くして事業を承継したが、東京進出などを巡ってベテラン社員と対立した苦労や経緯などを聞いた。
目次
祖父も父も広告会社を経営、どちらを選ぶ?
――昭和2年(1927年)に大阪で創業した日本広告企業は、交通広告、屋外広告といったロケーションメディアに特化された会社ですね。
日根野谷 昭和2年は、ラジオが普及し始めた時代です。大阪では地下鉄はできておらず、国鉄(現JR)や市電が台頭していた頃です。創業時に国鉄の広告の取り扱いを始め、その後、地下鉄に広告を出す認可を大阪で最初に受けました。また、当時の屋外広告は社名や商品名を印刷した「琺瑯看板」を電信柱に打ち付けたようなものが主流でした。戦後から現在も、交通広告と屋外広告を中心に事業を展開してきました。
――大学を卒業し、お祖父様が経営されていた日本広告企業に入社しましたが、お父様も広告関連会社を経営されていました。なぜお祖父様の会社に入られたのですか。
日根野谷 父親の会社は広告会社の発注を受け、広告媒体を制作・施工する会社でした。一方、祖父の会社は広告会社として、広告業をより幅広く手掛けておりました。より幅広い広い分野で広告を理解したいと思い、祖父の会社を選んだわけです。加えて、同じ会社の中で親子が仕事をするとストレスがあるよ、というアドバイスも先輩諸兄からいただき、祖父の会社を選びました。
祖父が急逝、会社清算の危機 最年少社員が社長に
――入社後は7年ほど大阪や東京で営業活動をされたと聞いていますが、お祖父さんが急逝されたときはどんな立場だったのですか。
日根野谷 経理のスタッフなどを別にすると、営業スタッフとしては私が一番年下でした。
――そんな状況で29歳の時に会社を引き継がれたのですか。
日根野谷 前社長、祖父が突然、心筋梗塞で亡くなりました。当時、私は社員として前社長を支える立場でしたが、経営者として持つべき情報は何も持っていませんでした。役員の中にも社長を任せられる人材は育っていなかったので、孫の私が社長を引き受けなければ承継者はいなくなり、会社を売却するか清算するかという瀬戸際でした。本当に、やるかやらないかを悩みました。
――悩んだ上で社長を引き継ごうと決心されたのはなぜですか。
日根野谷 結論を出す時に、最後に背中を押してくれたのは父親です。父が社長になる選択肢もあったのですが、父が「お前がやってみろ」と背中を押しました。背中を突き飛ばされたと思っています。その言葉で、入社以来一緒に時間を育んできた社員らと共に働き続けたいと思い、会社の代表として立つことを決意したのです。
いきなり社長、銀行の担当者も「初めまして」
――その決意は大変だったと思いますが、事業を承継した後もご苦労があったのではないですか。
日根野谷 お金、つまり資金繰りの問題と株の問題がありました。この問題を解決しないと会社として動き出すことができませんでした。それまで私は一社員でしたから、銀行の担当者や重要なステークホルダーの方々と、一度も面談したことはありませんでした。
「初めまして」と挨拶しながら、借入金の条件などがどうなっており、どうすべきかを一から話し合うという状況でした。会社を回すためには、当面の資金が当然必要になので、まずその確保が大変でした。最初の3ヶ月間は前の社長の個人保証の処理や担保の差し替えなどに没頭しました。
当社の株は、前社長の保有株と親族の保有株、社員の保有株、取引先などのステークホルダーの保有株がありました。会社をスムーズに経営するには買い取るべき株を買い取りたかったのですが、調整が必要でした。前社長、祖父の頭に青写真はあったと思いますが、何も教えてもらっていないので、手探りで進めざるを得ません。
――どのように解決できたのでしょうか。
日根野谷 父親が最大限のサポートをしてくれました。「お前がやれ」と背中を突き飛ばした結果として、助けてもらいました。父が経営する会社と一時的にグループ化するなどして、金融保証に協力してくれました。両親の協力も得て、最初の半年ほどでお金の問題を処理しました。しかし株の買い取り問題の解決には2年近くかかりました。
東京に進出しなければならない時代に
――資金繰りや株の買い取り問題も大変でしょうが、日々の会社の運営も大変でしたか。
日根野谷 私が社長になったころは東京のマーケットを無視できなくなっていました。大阪を発祥の地とする当社ですが、多くの法人が集まる東京の営業戦略を強化しなければならない状況でした。
――大阪が発祥の地ですから元々は大阪のシェアが高かったのですね。
日根野谷 私が入社した1997年ごろ地元の大阪の売り上げシェアが圧倒的に大きく、7割を超えていました。現在は半分を超えている東京の売り上げシェアは3割弱でした。しかしそのころになると大阪に本社がある会社さんも広告宣伝の部署を東京に移されることが多くなり、また東京で起業される会社もぐっと増えました。広告業で生きていくには、首都圏に足がかりを作らないといけない時代になっていました。
当時、新入社員だった私は1、2ヶ月に1度は東京に出張し、上司の後ろに付いて営業訪問をさせていただきました。東京の方に東京の交通広告や屋外広告を買っていただくには、まず東京を理解する必要がありまし た。東京の街を歩き回ったり、自転車に乗ったりして、街を理解し、どんな広告をどこに出せばいいのかを考える日々でした。
地元・大阪では反発、退社する社員も
――社長になられていよいよ東京シフトを加速するという段階になったわけですね。
日根野谷 そうなのですが、簡単ではありませんでした。広告代理業という仕事は取引先との関係など属人化しやすい業務です。大阪だけではなく東京など別の営業拠点で仕事をしようとすると、属人化した仕事を会社全体のシステムとしてノウハウを蓄積していくことが必須でした。仕事の進め方を見直し、東京シフトを実行することに苦労しました。
一概にはいえませんが、古い社員は大阪で太い人的ネットワーク持っています。彼らにしてみれば「新社長はなぜ東京にシフトすると言うのだ。今のままでいいじゃないか」と反発します。理解してくれる社員も多いのですが、年配の社員の中には退社する者もいました。社歴の長いものは会社の株も持っていましたので、退社されると外部にステークホルダーを抱えることになります。会社を変えようとしていましたので、「株を買い取らせてほしい」と交渉せざるをえませんでした。そこでも苦労がありました。
※こちらの記事は追記・修正をし、2024年3月26日に再度公開しました。
(文・構成/安井孝之)
後編|29歳で突然の社長就任、売上げが前年比6割に急落/「3人の父」のサポートで立て直した「必死のパッチ」の事業承継~日本広告企業
SHARE
記事一覧ページへ戻る