COLUMNコラム
海外ガイド『地球の歩き方』廃刊の危機、救世主は学研グループ/事業を継いだ元バックパッカー社長の思いとは

海外旅行ガイドブックのトップブランド『地球の歩き方』が存続の危機に陥ったのは2020年。新型コロナ感染症拡大に伴う、海外渡航の自粛要請により、売り上げは前年から9割減に。出版元のダイヤモンド・ビッグ社は経営難に陥り、1979年創刊の名門ブランドは廃刊の危機に瀕した。
そんな時、人材や制作体制をも受け入れ、新会社「地球の歩き方」として再出発する手厚い事業継承をしたのが、出版・教育大手の学研グループだ。なぜ、どん底の事業を“三顧の礼”で迎えたのか。
元バックパッカーという新会社の新井邦弘社長に、事業譲渡の経緯と他社ブランドを引き継ぐ際の心構え、その後のV 字回復について聞いた。(取材は2023年9月、肩書は当時)
目次
突然の社長指名

――2020年11月、ダイヤモンド・ビッグ社(以下、ビッグ社)が刊行していた『地球の歩き方』の出版事業とインバウンド事業が、学研プラス(当時)に譲渡されるニュースが流れた時は、出版界のみならず多くの旅行ファンが衝撃を受けました。この事業譲渡の経緯について教えてもらえますか。
新井 当時、私は学研ホールディングスのグローバル戦略室という海外事業の仕事をしていました。実は、事業譲渡の交渉に私は携わっていません。私に話が来た時は、譲渡の枠組みはほぼ決まっていました。事業譲渡が公表される直前、経営戦略室長から「ちょっと5分いい?」と言われ、別室で「『地球の歩き方』がうちに来ることになった」と切り出されました。
その時には、新会社を設立して受け入れることも、3年間の再生計画もできあがっていて、「新井が社長の候補に上がっているけど、どう?」という意思確認があった程度でした。
――その時の気持ちはどうだったのでしょう。
新井 また出版事業で仕事ができるという、純粋な喜びは感じました。編集の現場を離れて7年が経っていましたから、再び出版に関われるとは思っていなかったのです。
私も元はバックパッカーで、『地球の歩き方』にお世話になっていたので、「あの『地球の歩き方』をやれるの?」という喜びもありました。社内で海外経験があり、経営も編集も分かる人間は自分くらいかなという思いもあって、「やれと言われればやるよ」と返事をして、本当に5分で話が終わりました。
――新井社長にとっても寝耳に水で、ぎりぎりのタイミングだったのですね。
新井 2020年11月16日に対外発表をしましたが、詳しい話を聞いたのは確か前週でした。慌てて走り始めて12月1日に会社登記をし、同時にビッグ社から新会社での勤務を希望する人の面接がはじまりました。一般採用も受け付けていたので、面接と並行して各種手続きを進めました。
一方で、ビッグ社の80万冊に及ぶ在庫を、当社の倉庫に移す作業も必要でした。しかも年明けすぐに商品として流通できるよう、すべての本に新しいISBNコードのシールを貼らなければならない。
何しろ時間がない。私の手帳は予定で真っ黒でした。学研グループの事務担当や流通部門が年末ぎりぎりまで作業をしてくれて、総出で間に合わせました。
出版社にしか継承できない

――『地球の歩き方』が学研グループに事業譲渡されることについて、どう感じていたでしょうか。
新井 まず、この事業は出版社が引き受けなければならないと思っていました。本人に確認したことはありませんが、グループトップの宮原(※博昭・学研ホールディングス代表取締役)も同感だったと思います。
『地球の歩き方』のブランド力は高く、過去のコンテンツも充実しています。これほどのコンテンツメーカーは、出版社以外からも興味を持たれていたはずです。特にIT企業などは、大きな予算を用意しても欲しがるだろうと思いました。実際、世界ナンバーワンのガイドブック『ロンリープラネット』は2020年にIT企業(メディア)に買収されています。
――インフラを持つIT企業がコンテンツの蓄積を欲しがるというのは、分かりやすい構図ですね。
新井 そうですよね。しかし、『地球の歩き方』の価値は、マテリアル(※素材)の良さだけではありません。必ず編集者が日本から現地を訪れ、旅人目線で歩き、調査をしてくる。地道な作業を愚直に積み重ねてきた、この「編集コンセプト」にこそ本質的な価値があります。
経済効率や合理性を考えれば、現地に住む人から情報をもらえばいいのですが、そこに旅人目線はない。つまり『地球の歩き方』が40年かけてきた暗黙知こそが財産であり、そこを引き継がなければ『地球の歩き方』ではなくなることが、出版社なら理解できるはずです。そこまで引き継がなければ、やがて陳腐化するという印象はありました。
出版物は社員編集者だけでは作れません。社員より長く、創刊時から動いてきた数多くの編集プロダクション、ライターさんなど、社外の方の知見や協力あってこそのものです。ブランドを守るには、それも含めてそっくりそのまま、引き継げるかどうかにかかっています。こうした考えを理解できる出版社でなければ、『地球の歩き方』の事業譲渡は無理だったのです。
摩擦を生まない学研スタイル

――学研グループが持つ既存の編集事業体に組み込むのではなく、独立事業として再スタートさせるやり方にも驚きました。
新井 たしかに実用書籍部門の一角に、ビッグ社の従業員を引き受けたとしても十分機能したとは思います。しかし、これは私の分析ですが、新社設立というやり方は、学研グループのM&Aのスタイルを踏襲したということでしょう。
学研グループは主に教育事業分野で、数多くの塾のM&Aをしてきました。全国の塾に、私たちのグループに入っていただく時、いきなりブランド名を学研に切り替えるとか、学研の事業体に吸収するといった形は取りません。これには明確な理由があります。
私たちがお声がけする塾の多くは、地元のナンバーワンブランドです。東京の人は知らなくても、例えば熊本では知らない人はいない、といった塾です。地元では、学研のブランドより元々の看板のほうが強い。このため、ほぼすべて買収前のブランド名を引き継いできました。また、経営者層もほぼ100%引き継いできました。
『地球の歩き方』でも、同じ考え方だったのだろうと私は思っています。学研グループとしての知見であり経営判断だと思います。
――既存の『地球の歩き方』の体制やルールを変更しなかったのでしょうか。
新井 上場企業グループですので、ガバナンス面での縛りはあります。たとえば四半期決算だったり、書類手続きだったり、何事でもプライム企業としてのルールに従うことについては必ずやってもらうしかない。そこは苦労をかけましたが、それ以外は従来通りのやり方を引き継いでいます。
むしろ40年間、海外ガイドブックのトップブランドを作り上げてきた組織に学研が学ばせてもらい、どのようなシナジー(※相乗効果)が生まれるかという期待のほうが上回っていました。
――株式会社地球の歩き方としてのスタート初日に、どのようなメッセージを社員に伝えたのでしょうか。
新井 まず、私自身が学生時代から『地球の歩き方』にお世話になってきた人間だと伝えました。そして、もう下を向かないで3年後、5年後に向けて、力を合わせてやっていきましょうと、わりと楽観的に語りかけました。
――売り上げが9割減となった事業を引き受けることに、不安はなかったのでしょうか。
新井 経営不振と言っても、新型コロナという外部環境の変化だけで起きたことで、ブランドとかコンテンツの価値は、何も毀損されていません。コロナ前の数年は順調に推移していました。ですから「外部環境の回復」=「業績の回復」、とシンプルに考えていました。
ただコロナや他の外部要因で、再び同じ目に遭ってしまったら経営としてダメだとは思っていて、事業としてのレジリエンス(※弾性)を高めるために、海外ガイドブックの「一本足打法」はやめて、複数の柱を立てることを始めました。
10年後の姿を共有、V字回復

――ご自身が育ててきた人材でもなく、それまで関わりのなかった組織体を、どうコントロールして経営しようと考えていたのでしょうか。
確かに私だけ、落下傘で降りてきたのですから、不安に思う人もいたかもしれません。そこで私が呼びかけたのは、10年後の姿を34人の社員全員で描くということ。そこから逆算し、今するべきことを考えようと訴えました。
いわゆるバックキャストという手法ですが、10年後の未来を共有することは、ビッグ社から移ってきてくれた人たちに大きな意味を持つと思っていました。10年後も事業として存続させていきたい。だからこそみなさんに来てもらった、という学研グループのスタンスを明確に伝えたかったのです。
10年後となれば「本屋さんは少なくなるよね」「だったら電子書籍をどうする」といった、具体的な事業課題も共有できます。スタートして3か月くらいは、10年後を考える機会を頻繁に作りました。
――スタート直後から「旅の図鑑」「国内版」などのシリーズをハイペースで発行し、ヒットを連発。一方で「一本足打法」から脱却すべくライセンス事業などの展開を進め、業績もV字回復しました。
新井 おかげさまで、当社は9月決算ですが、2期連続で増収増益の見込みです。2022年7月には、「地球の歩き方」シリーズ全体でコロナ前の売り上げを回復しました。
――学研スタイルの事業承継と、ブランドに敬意を持って、移ってきた社員に安心して働ける環境を整えたことの成果ですね。
新井 実は学研のやり方は欧米ではよく見られます。私は海外戦略を担当していたので、欧米の出版界の動きも見てきましたが、アシェット、ペンギンといった巨大グループの傘下で、数多くの有名ブランドが守られています。あの有名な出版社もこのグループなのか、と驚くこともよくあります。
ブランドが企業グループ傘下で守られていくのは世界的な潮流であり、日本も今後は同様のスタイルになっていくのかもしれません。
ただ、『地球の歩き方』にはもっと幅広い価値があると私は考えています。たとえば人を旅に誘ったり、あるいはリアルに集ったり、異業種とのコラボで化学反応を生み出すといった、出版物やメディアの枠を越えた可能性を感じています。世界でも例のない出版ブランド発の事業展開を目指していきたいと考えています。
まとめ
『地球の歩き方』の事業譲渡の舞台裏には、受け入れ企業側のブランドへのリスペクト、「守っていかなければ」「廃刊を阻止しなければ」という使命感が感じられる。事業譲渡という難しい課題も、お互いを尊重する姿勢が根底にあってこそ、次への道が開かれていくのでしょう。
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