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「机上の空論」だった老舗のアトツギ息子が、現場でパートさんに怒られまくって学んだこと

1895(明治28)年、東京・本所に牛鍋屋として創業した「今半」。その日本橋支店が1956(昭和31)年に独立した「人形町今半本店」は、すき焼きや鉄板焼きなどの飲食店を全国に6ブランド19店舗を構え、黒毛和牛のすき焼き・鉄板焼きなどの提供をはじめ、弁当、惣菜、ケータリングなどを幅広く手がけ、日本の牛肉文化を牽引してきた存在といえる。現社長・髙岡哲郎氏に、父そして兄から老舗「人形町今半」の経営を引き継ぐまで、留学やホテル事業、レストランでパート社員に怒られながら成長してきた軌跡を振り返ってもらった。

兄は「後継ぎ」、お前は「自由」にちょっとさみしさも

――老舗企業に生まれ、小さい頃から「将来は家業を継ぐ」という考えはあったのでしょうか?

髙岡 3つ上の兄(前社長・髙岡慎一郎氏)がおり、当然長男の兄が継ぐものと思っていました。父もそのつもりで、家族で墓参りに行くとご先祖様のお墓に「若旦那の慎一郎を連れてまいりました」と挨拶するほどでした。だから、兄自身も後継ぎの意識はありましたが、だいぶ抵抗があったようです。

一方、私は「何でも自由にやって可能性を広げなさい」と言われて育ちました。兄と違って外で好きなことができるという嬉しさの一方で、逆に「私は今半にいてはいけないんだ」という、ちょっと寂しい思いもありました。今半という会社が大好きでしたから。

――ほかに将来の夢や就きたい職業はありましたか?

髙岡 他人が困っているのを放っておけないタイプだったので、困っている人を助けられる職業に就きたいと思っていました。たとえばお医者様、学校の先生、福祉の仕事などを考えていました。

「とりあえず」で入社した大好きな家業

――学生時代と就職活動はどのような感じでしたか?

髙岡 学生時代は、ほとんど福祉活動のボランティアばかりしていました。就職活動は、会員制リゾートがおもしろそうだなと思い会社説明会に行きましたが、あまり心がときめかず迷っていたところに「うちに来てもいい」と父から言われ、入社することにしたんです。

私は今半が大好きでした。でも、「とりあえず一番好きな会社にまず入って、やりたいことが見つかったらそのときは外に出ればいいか」という程度の軽い気持ちでしたね。今半でいろいろと仕事を覚えて、料理を極めるのもいいかなとも思っていました。

――そのとき、お兄様はもう今半にいらっしゃったのですか?

髙岡 いえ、兄は社会人になったとき、「少しでも外の世界を知りたい」とコンピューター関連の企業に就職したんです。そこで27歳まで勤めた後、今半に入社しますが、私の入社時は、まだ外で働いていました。私の方が先に入社し、兄が来たときにいい雰囲気になっていたらいいかな、と考えていました。

旅館の売却に成功、ご褒美にアメリカ留学

――入社後、調理部門をはじめさまざまな部署を経験されたそうですね。

髙岡 料理の道に進もうと思っていましたが、食材のアレルギーがわかって断念しました。元気を買われて販売部門に行かされ、販売が面白くなってきました。

時はバブルの頃です。当時、会社は日光で旅館を始めていました。でも、全然収益が上がらず、人手もないので、誰か元気な人を……と指名が来て、私が出向することになりました。

「本店の2代目」ということで、いつの間にか専務取締役総支配人という肩書きになってしまいました。そのうち資金繰り、集客、財務など専務らしい仕事もするようになると、もうこのままでは立ち行かないというのが分かってきました。

それまで修学旅行向けの宿だったのを、高級路線の観光旅館にしようと計画を立てたものの、赤字だらけの旅館に資金を出してくれる人がいない。それなら売却しかないと、売却先を探すことにしました。

――バブルの時代なので、買い手はすぐついたのでは?

髙岡 有名なホテルのオーナーさん達が目の色を変えてとびつき、旅館の上に視察のヘリコプターが飛ぶほどでした。その中で一番値を上げてくれる人は誰かと考え、隣の旅館のオーナーに話を持って行ったところ、こちらの希望額以上ですんなり話がまとまりました。

「売却が決まったよ」とうちの父に言ったら、ひっくり返って驚きましたね。売却益のおかげで、人形町今半始まって以来の収益が出たということで大騒ぎになりました。

以前から、ホテルの勉強のために留学したいという希望があったのですが、うちの会計士が父に「今回は哲郎さんの手柄ですから、留学を認めてあげてください」と口添えをしてくれて、資金も出たし行っていいよ、ということになりました。

――留学先ではどのようなことを学ばれたのですか?

髙岡 アメリカのコーネル大学で、観光ビジネスのプロのための大学院に通い、イギリスのホテルのアドバイザーとしてダイニングを担当もしました。その経験から、海外でのオペレーションにも自信を持てるようになりました。

レストランの現場で大苦戦 自分は「机上の空論」だった

――帰国後に、人形町今半新宿ルミネ店の店長として再始動しますね。

髙岡 帰国後、「新宿に新しく店を出すから店長をやれ」と言われ、軽い気持ちで引き受けたんです。ところが、私は机上の空論ばかりで、レストランビジネスがどれだけ大変なものか全然わかっていなかった。実際には「勘と度胸とど根性」が不可欠で、本当に大苦戦しましたね。ミスばかりして、パートの準社員さんたちに叱られながらやっていました。

――その後、人形町本店の店長に就任されましたが、そこでのお仕事はいかがでしたか?

髙岡 これまたルミネ店とは全然違いました。またイチから出直しです。時代からいえば令和平成から急に昭和に移ったような古い感覚で驚きました。店長になっても、お客様もうちの従業員もベテランの方々ばかりで、店長として見てくれる雰囲気はありませんでしたね。

代替わり直後に訪れたBSE、そして清算の危機

――2001年に、お父様が取締役社長を引退されましたね。

髙岡 兄が社長、私が副社長となりました。父も74歳になり、我々も成熟してきていろいろ成果も出していたので、「もうお前らの時代だ」と。さまざまな決断は我々のほうが早かったので、それを見ていての決心だったようです。

――承継から4ヶ月後、牛肉を扱う会社にとって致命的なBSE(狂牛病)という大きな試練に見舞われたそうですが、この難局をとうやって乗り切ったのでしょうか?

髙岡 父はとにかく幅広く事業をやりたい人でしたが、一つひとつは収益力の低いものばかりでした。借入金が膨らんで、BSEが始まる1年前にはすでに債務超過になっていました。そのときはうちの母が亡くなり、生命保険金が下りたことで乗り切れたのです。

しかし、2001年10月にBSEが発生したときは、さすがにもうダメだということで、父が私たちを呼んで、会社を清算すると宣告しました。

清算手続きのために我々3人で企業弁護士さんのところに行ったのですが、驚いたことに、財務表を見た弁護士さんが「お宅の会社は潰れないですよ」と言う。「債券が極めて少ないし、手形も一度も発行してない、潰れるスキームがひとつもない。支払いを少し遅らせてもらうだけで、すべて片がつきます」と言うんです。

そこで、取引業者にお願いして支払い期間を大幅に変更し、よその企業よりもちょっと遅いくらいに設定したら、急に楽になりました。もともと財務面では悪くない経営だったのですが、自分たちでは分かっていなかったということです。我々の代は、財務面をもう一度見直してより良い経営を目指していくことが必要と感じています。

髙岡哲郎氏プロフィール

髙岡哲郎(たかおか・てつろう)

1961年3月東京都生まれ。1985年4月、株式会社人形町今半に入社。仕入れ、和食調理、精肉調理、販売を経て株式会社東観荘に出向、専務取締役支配人となる。1990年に米国コーネル大学PDPスクールに留学し、英国のホテルダイニングのオペレーションアドバイザーを務める。1991年10月帰国、人形町今半新宿ルミネ店取締役店長就任。1996年、人形町今半本店店長就任。2001年6月取締役副社長兼飲食部総支配人就任。2018年6月、代表取締役副社長兼営業本部長兼経営企画室長就任。2023年代表取締役社長に就任し、現在に至る。

文/黒羽真知子

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賢者の選択 サクセッション編集部

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