COLUMNコラム
社長の息子、入社してすぐに大ヒット商品を開発 それが面白くなかったのは「カリスマ」で「靴下の神様」の社長だった…
「靴下屋」「Tabio」「Tabio MEN」などの靴下専門店を運営・展開するタビオ株式会社(大阪市浪速区)。履き心地を追及した最高品質を掲げ、「靴下の専門店」という新しい業態で成功を収めている。「靴下の神様」といわれたカリスマ創業者が立ち上げた会社は、一時は「3足1000円」のショップを出店するなど業績が低迷したこともあった。しかし、父から経営を引き継いだ越智勝寛氏(55)が、確執を経ながらも社名変更やマーケットインの発想を導入するなどし、経営を立て直した。越智氏に、事業承継の経緯を聞いた。
目次
家業を継ぐつもりが、なぜか化粧品会社へ
――タビオに入社する前、化粧品会社で3年間勤務されていたそうですね。
大学卒業を控え、父に連絡したら「人が足りないからすぐ来い」と言われたので、タビオ(当時の社名はダン)に就職するつもりでいました。ところが、タビオに行ってみたら、父からいきなり、経営者同士で仲の良かった化粧品会社「ハウス オブ ローゼ」に行け、と言われました。まさかの展開でした。でも、良い経験になったのです。
――具体的にどんな経験をしたのですか?
ひとつは、現場の人たちと一緒に働くことで、現場仕事の苦労や楽しさを味わったことです。「ハウス オブ ローゼ」ではまず、物流倉庫で8か月間働きました。棚卸の大変なときなどに、アルバイトの人たちも含めて食事会を開いたりして、職場に一体感をつくることができました。
あとの2年ほどは、女性の上司やスタッフに囲まれた職場で店舗販売員を経験しました。しかし、経営サイドの指令は、現場の状況をあまり反映しておらず、組織の上層部が現場の実態を把握することの難しさを学びました。
父と仲がいいこともあり、上層部に会うこともあったので、ここぞとばかりに現場の状況を直接訴えましたが、うるさいヤツだと思われていたでしょうね。この経験は経営する側になってから役に立っています。
入社直後、大ヒット商品を生んだのに…
――3年後にダン(現・タビオ)に入社して、どのような仕事を担当したのですか?
当時、会社は業績も好調で、上場の準備をしていました。私は商品部に配属され、直営の数店舗と当時トレンドの最先端だった「心斎橋ビッグステップ」の店舗の商品担当兼営業を任されました。
各店の商品構成などを考えることになったのですが、「ビッグステップ」の店舗は、若い女性が多いのに、ビジネス用のソックスやキッズ用の商品を扱っていて、「なんだ、このダサい店は!」と愕然としたのを今でも覚えています。
これでは売れないと思い、ビッグステップの店舗は若い女性にもアピールできる業態にリニューアルしようと提案しました。本来、新入社員が大それたことはできません。でも、社長の息子ということで、上の人が相談に乗ってくれて話を進めてもらったのです。
――その取り組みの結果は?
ターゲットを若者に設定したのはいいですが、自社に売れそうなものがありませんでした。目をつけたのが、当時は誰も担当者がいなかったタイツです。商品部長に「タイツを扱わせてほしい」と直談判して、イチからつくったのがピンクやブルーなど24色のカラータイツのシリーズでした。
社内に開発を手伝ってくれる人がおらず、取引業者の工場にも協力を断られてしまいました。そこで芸大出身の私の血が騒ぎまして、自分でビーカーを使いながら色を染めたりして商品を完成させました。商品パッケージも自分でデザインしました。
店頭に並べてみたら大ヒット。全国の店舗で扱うことになり、会社の売り上げにも相当貢献しました。
――華やかなデビュー戦を飾ったわけですね。
そのとおりです、と自慢したいところですが、実際はこの大ヒットが、私のタビオでの先行きを困難にしてしまいました。タイツの売り上げが好調だったおかげで上場の会計基準をクリアできたこともあり、会社としては万々歳のはず。
でも、いきなり社長の息子が入ってきて店をリニューアルし、新しいブランドを立ち上げるなど、およそ新入社員では考えられない勝手なマネをして、しかもそれがヒットしてしまった。当然、面白くない人が出てきます。
一番ショックだったのは、その筆頭が社長、すなわち父だったことです。「カラータイツのおかげで上場できた」と噂され、父のプライドが傷ついたのでしょうね。さんざんこき下ろされました。
――せっかく成果を出したのに、それで叱られてしまうとは……。
ただ、私が腹を立てることはありませんでした。嘘っぽく聞こえるかもしれませんが、わりと冷静にその状況を見ていました。創業者らしい、分かりやすい面も父の人柄としての魅力でしたから。
それに、もしかしたら父もざわつく社員の手前、息子に厳しく言う必要があったかもしれません。ただ、今だから言いますと、2代目で若手の頃は、「ちょっとダメなヤツ」を演じたほうが、楽だろうとは思います。
――そこは後継ぎの「処世術」なのでしょうか?
そうですね。といっても、父はその頃、私に継がせる約束をしていたわけでもなく、私自身も自分が継ぐことは全く考えていませんでした。ただ、周りから見れば当然、「息子だから」「後継ぎだから」という目で見ますよね。
ダンからタビオへ、社名変更した理由は
――2000年に大阪証券取引所に上場を果たし、6年後に「ダン」から「タビオ」へ社名変更されています。経緯を教えてください。
2000年に上場してから社内環境も市場環境も変わりました。それに伴い、会社の売り上げが低迷してしまったんです。とうとう「3足1000円」のショップの展開にまで踏み切ったのですが、それでも赤字の店が続出していました。
その頃、当社の専務が、ある大手企業の経営層の人から「リブランディング」を勧められたという話を聞きました。上場後は事業も広がり、海外展開も始まっていました。2002年にロンドンに海外初出店をして、その店の名前が「タビオ(Tabio)」でした。
「ダン」という言葉は、欧米では「ダニエル」という男性名のあだ名になるため、ブランド名としていずれ使えなくなるかも、という危惧があったからです。
その頃、将来の社名変更を見据えて、商標登録は済ませていました。あとは、先代の様子をうかがいつつ、ベストなタイミングで変えようと。そして2006年、大々的にリブランディングをすることが決まったとき、父に提案し、新社名に変わったのです。
「靴下の神様」はどんな思いだったのか
――2008年、「靴下の神様」と称された創業者で父親の越智直正氏から事業を引き継ぎ、2代目社長に就任したそうですね。
就任の少し前、父から「話がある」と喫茶店に呼ばれました。そこで「お前、ワシの後の社長がやれるのか?」と問われたので、「やりますよ」と平然と答えたら、「だったらやってみろ!」と話が決まりました。だいぶ端折ってはいますが、おおむねこれが真相です。売り言葉に買い言葉のようなやり取りでした。
――カリスマ経営者である先代から経営を引き継ぐ自信があったのですか?
自信の有無は関係ないです。私が社長になろうとなるまいと、タビオという会社は隅から隅まで創業者・直正そのものであることに変わりない。それは私が一番、分かっていました。ただ、創業者の思いを達成するには、私が社長をしたほうがいいだろうなと思っただけです。
――その理由は何でしょう?
上場してからの創業者の姿が、「らしくない」というか、辛そうに見えていました。先代はよくも悪くも「昭和の経営者」らしい人で、もともと陽気で豪快な人でした。ところが、上場後は、「上場企業の経営者らしさ」を演じなければならない部分もあったのか、ずいぶん変わってしまった印象があったのです。
特に、株主総会やIR分野を苦手にしていた面がありました。「そういう苦手なところは私が引き受けますから、社長は会長になられたらどうですか」と勧めたわけです。
――先代は、後継者としての力を認めていたのでしょうか。
それなら嬉しいですが、本音は「やれるもんならやってみい!」だったように思います。あくまで私の推測ですが、当時、タビオがウィキペディアに載り、「先代が作った会社の危機を、息子が救って成長させた」といった趣旨のことが書かれました。
先代はそれを私が書いたと思い込み、腹を立てたんだと思います。そこで私の腹を探るために、「お前、やれるのか!」と迫ったのだろうと。私は、社長になりたいという気持ちはありませんでしたが、株主総会やIRを引き受ける以上、社長になるしかない。その方が、先代が追い求めてきた会社に近づけると思い、「やれますよ」と答え、社長を引き受けたのです。
越智勝寛氏プロフィール
越智勝寛
タビオ株式会社 代表取締役社長
1969年、大阪府出身。1994年から約3年間、化粧品会社ハウス オブ ローゼで主に販売員として働いた後、父親が創業者である靴下専門の会社、ダン(現タビオ)に入社。商品部に配属されるいなや、それまでになかったカラータイツを売り出し、大ヒット。2003年に商品本部長となった後、2005年から2006年の1年間、経営者研修に参加。2007年に取締役第一営業本部長を務めた後、2008年に父・直正氏から経営を引き継いで代表取締役社長に就任。
取材・文/大島七々三
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