COLUMNコラム
「パパ、ベンツ買って」とバカなふりをしていれば良かったのか 先代社長だった父と相容れず、1度は役員を解任された社長の悟り
「白寿(99歳)まで生きることを科学する研究所」を掲げ、「頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症」を緩和する効果を持つ保険診療適用機器「ヘルストロン」を製造・販売する株式会社白寿生科学研究所。銀行員だった原浩之代表取締役(53)は1998年、父から強引に後継者として家業の会社に戻された。しかし、奮闘すればするほど、先代社長の父と関係が悪化するばかりで、役員を解任されるなど「アトツギ」としての道は決して平坦ではなかった。父との軋轢や会社の危機をどう乗りこえたのか、2020年に代表取締役に就任した原氏に聞いた。
目次
銀行員を経て父親の会社に転職し……
――白寿生科学研究所に入社した当時の会社の状況は?
会社の業績は上がっていました。株式公開など、事業規模の拡大のために戻ってこいと言われたくらいだったので、すごく勢いがありました。前職の銀行を辞める際、当時の上司がうちの会社の決算を確認したところ、あまりに優秀で驚いていたほどです。
ただ内情は、財務面で適正な処理が行われていないなど、田舎のバブル企業といった趣きがありました。脳や血管が未熟な子どものまま、売上や利益といった「体」だけが大きく成長してしまったような、バランスの悪さを感じていました。
――「脳や血管が未熟」とは、どういう意味でしょうか?
「血管」でいえば、会社にとって資金は血液です。銀行は会社の資金を回すのが仕事で、つまり血の巡りをよくする役割を担います。つまり、血管とは社内の経理や財務のことで、その部分に稚拙さを覚えました。
たとえば、会計上の処理を適切に行わず、税金を2億円くらい余計に払っていましたし、在庫管理ができていない、ERPやPOSレジといったシステムの開発に失敗した、といったこともありました。
順風そうに見えた会社、しかし危機が
――そのような状況を、銀行員時代の経験を活かして改善していったのでしょうか
銀行で得た知見は本当に役立ちました。特に人のつながりです。システム系の問題は、銀行員時代にお付き合いしていた方に助けてもらいました。
ただ、私の仕事ぶりは、父の評価にはつながっていなかったように思います。株式公開のプロジェクトは依然、父が主導しました。株式公開に向けて会社のやり方を変えたのですが、結果的にある強みをスポイルすることになり、売上が大きく落ちてしまいました。2、3年で経常利益が10億円くらい減ってしまうような事態でした。
――会社としての危機感は大きかったと思います。
父は相当焦っていました。今から考えれば、これはいくつかあった危機の中で最初の方。競馬でいうところの第1コーナーで、その後、本当に深刻な第4コーナーがやってきたのです。
経常利益が10億円ほど減ったといっても、もともとが20億だったので、まだ10億円の利益が出ていました。しかし、父は社長として「もっと利益を上げろ」と社内全体に発破をかけて強硬路線をとりました。競馬でいえば、第1コーナーでムチを連打するような有り様だったと思います。
「赤字はお前のせい」役員を解任
――先代との関係について教えてください。
会社を良くするため、父親にいろいろ進言しました。しかし、父は快く思わなかったのでしょう。何度か追い払われるような待遇を受けました。
父は20代から社長を務め、創業者である祖父の息子ということもあり、誰からも忠告や手厳しい意見を言われたことがなかったようです。だから、私の言うことはほとんど聞き入れられず、父親との関係はこじれました。
会社が危機的状況になり、一介の社員では責任が取れないので、私が営業本部長になりました。
しかし、「赤字が出たのはお前のせいだ」と過去の責任を取らされる形で、取締役員を外されました。退職金まで出される始末です。
――その頃、次期社長が社外から来たそうですね。
私と父との関係が悪化したので、第三者的に「雇われ社長」が呼ばれました。外資系で活躍した方で、先代は私より、社外から引っ張ってきた人を信頼しました。私には寝耳に水の出来事でした。また、2010年代後半の時期には社内会議に参加させてもらえないとか、冷遇されている期間が続きました。
「バカなふり」をしていればよかったのか
――アトツギとして迎えられたはずが、実際は一筋縄ではいかなかったのですね。
懇意の幹部からは、「バカなふりしていたらいいのに、そうしたら、すぐに社長を譲ってもらえると思いますよ」と、冗談交じりに言われたことがありました。彼曰く、「パパ、ベンツ買って」みたいな感じの、出来の悪い御曹司のような振る舞いをしていればいい、と。
私が「ハイハイ」と素直に父親の言うことを聞いていれば違ったかもしれませんが、性に合いません。正しいと思ったことを伝えただけでしたが、父には耳に痛いことばかりだったのでしょう。私が言い過ぎた面もあり、父としての威厳を傷つけられたと感じたのかもしれません。
――原代表自身は、どんな気持ちだったのでしょうか?
精神面は、率直に言うと「きつかった」です。私が何を言っても、父は「ごちゃちゃ言うな」と感情的になり、厳しい言葉を浴びせてくる。血のつながりがある分、ほかの社員には見せないような裏の顔で迫ってきますし、遠慮がない。非常に厳しいものがありました。
相容れない父との最適解
――当時の経営は、まだ危機的な状況が続いていたのでしょうか。
当時、会社の借金を清算する過程で、祖母の9億円の預金担保が解消されました。もともと会社のお金なので、「何らかの形で会社に戻すべきだ」と主張したのですが、父には聞き入れてもらえませんでした。世代や立場による価値観の違いといえばそれまでですが、やはり父親と私は考えが噛み合わないのでしょう。
その頃、あるドラマで「お前は正義感ぶっているだろうけど、桃太郎なだけだ」というセリフを聞いて、ひどく考えさせられたことを覚えています。
――それはどういうことでしょうか?
桃太郎は、村の人のために鬼退治をしたけど、鬼側の立場にしたら鬼の子どもは桃太郎を恨んでいる、つまり相反する立場から見るとそれぞれに違う正義が存在するわけです。これは、私たち親子の関係に当てはまることだと感じました。
親子であることは永遠に変わらない。でも、将来、父と本音で語り合うことはできないだろう、といった心境になりました。いわばあきらめたのです。いまから10年ほど前くらい、社長に就任するずっと前のことです。
――具体的に、どんな行動をとったのでしょうか。
何を言ってもうまくいかないので、自分の意見を言わないようになりました。すると父の中にあった私への対抗心がだんだんなくなってきたようです。ちょうど当時、父が信頼していた社員が急に辞めたこともあり、それまで3年ほど社内会議も参加させてもらえなかったのに、営業本部長に戻されました。
その直後にコロナショックが起こり、店舗が一時休業や閉店に追い込まれ、大打撃を受けました。私は営業本部長でしたが、役員から「もう承継してはどうか」という声が父に寄せられるようになり、2020年、父が私に社長を譲ってくれたのです。株式の承継も一気に進みました。
いま、父は会長として週1回くらい会社に来ます。今も「ここだけは譲れない」と、私と違う意見を主張してくることがありますが、父が正しいのか私が正しいのかは、社員が判断してくれるはずです。社員が「やっぱり社長に頼るしかないな」と、自発的に思ってくれればいいと思います。
私と同じような悩みを持つ後継者の方もいるかもしれませんが、ときには父親に対して「あきらめる」という選択肢を持つことも必要なのではないでしょうか。
原浩之氏プロフィール
原浩之(はら・ひろゆき)氏
1971年、東京都生まれ。慶應義塾大学を卒業後、1994年にあさひ銀行(現・りそな銀行)に入行。1998年、株式会社白寿生科学研究所に入社し、2020年に代表取締役社長に就任。日本ホームヘルス機器協会理事、早稲田大学総合科学研究機構グローバル科学知融合研究所招聘研究員なども務める。
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