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日本で初めて「鶏の唐揚げ」を出したレストラン/「料理は科学」3男社長、大震災で知った客の支え~三笠会館の事業承継【前編】

漫画家の手塚治虫など、名だたる著名人に愛されてきた銀座の老舗レストラン「三笠会館」。1925年に氷水屋として歌舞伎座前で産声をあげ、2年後に食堂へ転身。鶏の唐揚げを初めてメニューに載せたといわれ、以後も和洋中の多様なレストランを自社ビルの各階に擁した「多業態展開」に乗り出すなど、革新的なアイディアで耳目を集めてきた。現在4代目を務める谷辰哉代表取締役社長に、創業家の三男として生まれ、実際に事業を承継するまでの道程について話を聞いた。

料理は勘ではなく、科学であり物理現象

――幼少期から「料理好き」とのことですが、やはり家業の影響でしょうか?

 私が子どもだった1980年代は、“モーレツに働く”ことが良しとされた時代。父も非常に多忙で、ほとんど家に帰ってきませんでした。親戚や親しい人たちが家に出入りしてご飯を作ってくれて、見よう見まねで台所に立ったのが始まりです。

焚火とか火が好きで、今も肉を焼くのにはこだわりがあります。料理は勘ではなく、科学であり物理現象。何事もじっと観察して客観的に判断する子どもだったので、親和性があったのかもしれません。

事業承継を見据えての教育は全くありませんでした。私は第三子で、自分自身を含め、誰しもが家業を継ぐとはこれっぽっちも考えてきませんでした。慶應義塾大学法学部に入学し、3年生で普通に就職活動をしていました。

「お金から遠いところで」

――卒業後はアサヒビールに就職されています。なぜ飲食業界を選ばれたのでしょうか?

 ちょうど1990年代の後半にかけてバブルがはじけた頃で、世の中が暗いムードに沈み、テレビでは「お金で失敗した」というニュースが散々流れていました。それで「金融や保険ではなく、“お金から遠い”仕事に就きたい」と考えたのです。

とくに「食」なら、嫌な思いをする人もそういないだろうと。ビールメーカーを選んだのは、お酒が好きだったわけではなく(笑)、食品業界のなかでも給料が高水準だったという現実的な理由です。

2003年、まだフロッピーディスクの家業

――アサヒビールでは物流部門を中心に経験を積まれ、2003年に三笠会館に入社されます。三笠会館では、はじめはアルバイトだったのですね?

 ある日、先代の補佐をしていた親戚から「書類の片づけを手伝ってほしい」と電話がありました。その頃の私はアサヒビールを辞めて、あえて何もしない日々を送っていたんです。3カ月ほどのんびりしたし、バイトとして手伝ってもいいかなと、三笠会館に出入りするようになりました。そこからまさか、社長になるとは思いもしませんでした(笑)。

実際に家業へ入ってみると、アサヒビールとは言語も文化や考え方も、まったく違っていて、前職では当たり前だったパソコンもあるにはあるけれど古いし、使いこなせておらず、メールを送っても開いてすらくれないし、宛先不明の人までいる。データはフロッピーに保存して手渡し……。「まだこの段階なのか」とショックを受けました。

情報インフラ整備、アサヒビールの経験が生きる

――そこで、情報インフラの整備に乗り出されたわけですね。

 「誰が何をやっているのか」、「何のためにやっているのか」が見えない状態でしたから、その整備に着手しました。会社の数字が出るまでに非常に時間がかかり、従業員も不便を感じていながら、どうすればいいか分からず、勢いだけで仕事をしていました。1990年代は店が増えたため、各店舗にローカルルールができて複雑化していたんです。

その点、アサヒビールは伝票1枚に至るまで、リアルタイムで数字が共有・管理されていました。我々も「スピーディーに動ける会社」を目指そうと、アサヒビールでの経験とちょっとかじったパソコン製作で培った知識をもとに、4年ほどかけて情報インフラを整えました。

数字の出し方を統一し、紙ではなくデータで共有。徐々に、従業員全員が「今、会社がどうなっているのか」を理解できるようにしていきました。

「外食逆風」店舗整理に着手

――企業文化を根本から変革となると、反発の声もあったのでは?

 ゼロではなかったでしょうが、先代もインフラ整備に積極的だったことが幸いしました。やはり会社の数字が出ないことは経営者にとってストレスですから。「こんな課題があるのか。ならば、こうしてみよう」といった課題と解決のサイクルが速くなったため、社内改革もスムーズに進んでいきました。

続いて着手したのが店舗整理です。飲食業界は1997年にピークを迎え、以降はデフレと縮小の一途を辿っています。2000年代は“外食逆風”の波に抗えず、多くの店舗をクローズしました。

この時期はかなり厳しかったですね。数字も出ないですし、値下げも激化して商売にならなかった。さらにリーマン・ショックのダメージがじわじわと効いてくる始末で、損切りの時期でした。

東日本大震災で感じた「お客様の愛」

――追い打ちをかけるように、2011年、東日本大震災が起こります。

 同業他社の売上は非常に落ち込んだと聞きましたが、三笠会館の業績は2011年の夏頃から大きく回復しました。未曽有の大震災で“死”が急激にリアルに感じられたことによって、「いつまた震災が起きるかわからない。そうなれば、大切な人と二度と会えないかもしれない」と多くの方が思われたのでしょう。

同窓会などの大規模な会合を開いてくださるお客様が急激に増えたのです。「この時間を大切にしよう、会いたい人にちゃんと会っておこう」と願われた時、その場として三笠会館を選んでいただいた。それはやはり長く愛される店を続けてきた結果ですし、お客様のおかげでどうにか苦境を乗り切ることができました。

先代が秘書に明かした想い

――震災の翌年である2012年、社長に就任されます。先代からはどのように承継を告げられたのでしょうか?

 突然でしたね。前触れなく、何気ない話のように「もう決めた、私は辞める」と切り出されて驚きました。いずれ来るだろうとは思っていましたが、まさかこのタイミングとは。私はまだ家業に入って10年も経っていませんでしたから。しかも、翌年6月の株主総会で交代だろうと思ったら、「いや、年内に辞めたい」と。その時点で9月だったのにですよ(苦笑)。何とか時期を延ばして、11月に交代が決まりました。

本人は語らないので想像に過ぎませんが、リーマン・ショックや東日本大震災といった大きな出来事を受けて「時代は変わった」と考えたのではないでしょうか。先代は、様々な店舗を出して外食の楽しさを世に広めてきました。ただ、そのやり方だけではもう立ち行かない。時代が変わった今、経営に新しい視点が必要だと捉えたのではないかと。

後々聞いたのですが、先代は秘書にこんな話をしていたようです。「自分は後見役としてしばらくは社に残る。万が一、私と新社長の意見が異なった場合は、新社長の側につきなさい。それに、私が元気なうちに社長の座を譲れば、もし新社長が失敗してもこちらで責任を持てる」と。

時代への適応とは「社会に必要とされること」

――実際に先代と意見が食い違う場面もあったのでしょうか?

 予約窓口を「電話」だけではなく、「ネット」中心に変えたときは、今までのお客様が離れてしまうのではないかと現場から反対されました。他にも古いシステムはかなり壊していきデータを活用することを進めていきました。データ化やシステム化は、意見が一致した部分です。

三笠会館は大正時代に氷水屋として創業してから、業態を柔軟に変化させ、時代に適応してきました。「適応」とは、社会に必要とされ、認められることであって、経営者の好みだけでどうこうするものではありません。先代の主張と食い違おうと、最終的には社会が望む方向に舵を切るべきだと思います。

(文・構成/埴岡ゆり)

※こちらの記事は追記・修正をし、2024年2月15日に再度公開しました。

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株式会社三笠会館 代表取締役社長 谷 辰哉

1976年、東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、アサヒビール入社。物流部門などを担当。2003年、三笠会館へ入社。12年、代表取締役社長に就任する。

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