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借金1億5千万円で倒産寸前から復活した「鎌倉のカレー女王」 元生保レディのガッツで、下請けの悲哀を脱出

「鎌倉のカレー女王」と呼ばれる社長がいる。28歳でカレールー製造・販売の家業を継いだとき、会社は1億5千万円の借金を抱え、倒産寸前だった。しかし、事業承継直後から業績をV字回復させ、主力の「鎌倉カレー」をはじめ、時代のニーズに応える先進的な商品開発でヒット商品を連発している。「鎌倉のカレー女王」こと株式会社エム・トゥ・エムの伊藤眞代(まこ)社長(54)に、壮絶な事業承継の経緯を聞いた。

ボロボロの家業、「お前が社長をやれ」

−−−−エム・トゥ・エムについて教えてください。

1876(明治9)年、私の曽祖父・黒田政吉が浅草で西洋料理店「フランス料理太平洋」を開いたのが原点です。そして、政吉の息子、黒田長蔵が1928年に店を引き継いで「レストラン太平洋」を開業し、レストラン内で粉末のホワイトソースを開発しました。

これが日本初の粉末スープだと聞いています。ホワイトソースの特許を取得した長蔵は、お店は祖母・房子に任せ、東京の深川区(現在の東京都江東区)に工場を設けました。しかし、レストランや工場は1945年の東京大空襲で焼けてしまい、別荘のあった鎌倉で食品会社として再出発しました。

−−−−事業承継の経緯を教えてください。

物心ついたころには父が工場を動かし、他社メーカーのカレーやブラウンルーの製造下請けをしていました。父が忙しさを横目で見つつ、子どもの頃から自由に育てられました。

ただ、「事業は長男が継ぐもの」という雰囲気があり、跡を継ぐのは私の弟と決まっていました。「将来を決められている弟はかわいそうだな」と思っていましたね。

社会人になった私は保険外交員になり、いわゆるキャリアウーマンとしてバリバリやっていました。それがある日、父に呼ばれて久しぶりに実家に行ったんです。すると、玄関先が散らかっていて、部屋やトイレも汚い。事業がうまくいっていないことを実感しましたね。

そして、初めて父から多額の借金があることを知らされ、唖然としました。決算書の数字もひどいもので、私は「うちは自社ブランドがないんだし、もう辞めてもいいんじゃない?」と言ったんです。すると父がいきなり、「眞代、お前が社長をやれ」と。

−−−−事前の相談はなかったのですか?

事前相談は一切ありませんでした。当時の私は年収1200万円くらい稼いでいて、バリバリやっていたんですが、父は「これも勉強だから」と譲らなくて。

だけど私は食品関係の仕事の経験はなく、会社の業績もボロボロの状態。借金は1億5000万円もありました。だから、「えっ、なんで私がやるの!?」というのが正直な思いでしたが、同時に「こうなったら、私がやるしかない」という気持ちも芽生えました。

立て直しの期間は3年と決めました。3年後なら私が31歳で、先に入社していた弟は29歳。まだまだやり直せる年齢だと思ったからです。姉弟ふたりで3年だけ頑張って、それでだめなら事業を畳もうと考えました。

資金繰りのため、生まれ育った自宅を売却

−−−−当時の業績不振の背景を詳しく教えてください。

時代の移り変わりや人材不足、施設の老朽化など、さまざまなことが重なった結果だと思います。食に関する事業は、ひと昔前には考えられないくらい多様化していて、多様な企業が参入するようになりました。昔のやり方を続けても業績が上がらず、借金が1億5000万円まで膨らんだのだと思います。

そして、父は経営者に向いていませんでした。ものづくり職人としては一流ですが、経営に関することは大ざっぱ。几帳面な母が父をフォローしてきたのですが、私が17歳のときに母が亡くなり、少しずつ経営に悪い影響が積み重なっていったと思います。

−−−−社長に就任して、どんなことに取り組んだのですか?

まずはとにかく清潔にすること。当たり前のことですが、工場内の掃除でいえば、それまでは「気づいた人がやる」みたいな感じでした。それを、私も一緒に掃除をする当番制にして、従業員の意識改革を行いました。

また、新たに姉弟で会社を再建するということで、元の会社は清算。私と弟の順麗(まさよし)のイニシャルをとり、新会社「エム・トゥ・エム」を設立しました。

−−−−資金繰りはどうされたのでしょうか?

1億5000万円もの借金があったので、資金にまったく余裕はありませんでした。仕方ないので祖母の許しを得て、自宅を売却して資金繰りしたんです。

生まれ育ってきた家ですし、ほかの家族も思い入れのある家でした。でも、これ以上の借金はできず、祖母は「お前がやるんだったらいいよ」と言ってくれました。祖母も経営面や営業面で祖父や父を支えた強い人でした。

−−−−事業継承した直後、従業員の反応はどうでしたか?

社長の娘とはいえ、食品業界の経験はゼロ。私は当時28歳でしたが、パートさんが私の小学校の友達のお母さんだったりするんです。当然、実務経験のない若い女性がいきなり社長になることに、みなさん抵抗がありました。

他業種の事業承継にもいえることだと思いますが、ベテラン従業員ほど、仕事のやり方が変わることを嫌います。何をするにも従業員から反発を受けました。でも、会社が存続できるどうかの瀬戸際です。「良いものは良い、ダメなものはダメ」と強い気持ちをもって従業員と対峙しましたね。

下請けの悲劇を繰り返さない

−−−−業績を回復させるために、ほかにどんな取り組みを行なったのですか?

自社ブランドの確立です。以前、父があるメーカーにカレーフレークの技術提供をしたり、下請けの仕事をしたりしていたのですが、技術を教えた途端に契約を打ち切られてしまったことがありました。

「メーカーの下請けだと、こういうことになるんだ」と強く感じましたね。

ブランド確立には市場調査が大事ということで、パートさんと自転車で周辺のスーパーを回り、各メーカーのカレールーのグラム数や素材、値段を調べたり、どんなものが売れているかを調査したりしました。

すると「無添加のカレールーはない」といった新しい気づきを得て、商品のアイデアも生まれ、商品開発を進めました。専務であり工場長だった弟が天才的な味覚の持ち主で、品質・味の面でも絶対的な自信をもって売ることができました。私はスーパーの新規開拓営業に注力しました。

−−−−営業では、前職の経験が生かされたのでしょうか。

最初はスーパーのユニオンさんに営業に行き、門前払いされたのですが、めげずに通いました。

3回目に行ったとき、「私が店内の掃除をするので、その間にうちの商品を食べてください」とお願いしたら、担当者さんが「おいしいじゃない!」とほめてくれて、うちの商品を置いてくれるようになりました。

その勢いで、オリンピックさんと成城石井さんにも営業に行って、PB(プライベートブランド)の話が決まったのです。

スーパー業界は基本的に男性社会です。ディズニー映画の『ファインディング・ニモ』のように、荒っぽいサメがたくさんいる大海を泳いでいるような気持ちでした。

でも、生保レディで培ったガッツがここで活きたんだと思います。結果、3年間で借金を全額返済することができたのですから。

伊藤眞代さんプロフィール

伊藤眞代(いとう・まこ)

1970年、神奈川県鎌倉市生まれ。保険会社の営業職として活躍していたが、1億5000万円の負債を抱えて経営不振に陥った家業を救うべく、28歳の若さで代表取締役に就任。「老舗の洋食屋の味をご家庭で味わっていただきたい」という思いと、安心・安全な商品開発で多くのヒット商品を世に送り出す。業績を急回復させ、2021年に鎌倉の地に自社工場を建設し、「鎌倉のカレー女王」と呼ばれるようになる。

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賢者の選択サクセッション編集部

日本の社会課題である事業承継問題を解決するため、ビジネスを創り・受け継ぐ立場の事例から「事業創継」の在り方を探る事業承継総合メディア「賢者の選択サクセッション」。事業創継を成し遂げた“賢者”と共に考えるテレビ番組「賢者の選択サクセッション」も放送中。

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