COLUMNコラム
「事業承継はタイミングが大事」。入社4年で上場企業社長に/早川良太郎インタビュー

ストライダーズ(東証スタンダード市場)は不動産事業やホテル事業、海外事業に投資し、経営管理する投資会社である。早川良太郎社長は前社長の父、早川良一会長から34歳で会社を引き継いだ。大卒後に働いたオリックスから入社し、4年足らずのことだった。若くして上場企業を事業承継した早川社長は公平で透明性のある経営を心がけ、新しい企業文化をつくろうとしている。その真意を聞いた。
――前社長である父親から引き継ぎ、ストライダーズの社長に34歳で就任されました。上場企業としては随分早い社長就任ですが、どんな受け止めでしたか。
早川 漠然とした不安や怖さがありました。しかし、私の同世代にも起業したり、事業承継したりして、会社を経営している仲間が何人かいました。彼らをみていると、社長になるのが早い遅いではなく、企業にとってのタイミングが大事だと思いました。打診から半年ぐらい考えましたが、「お前に任せるよ」と言ってもらったタイミングが受け継ぐタイミングなのかという風に思い、引き受けました。
――ストライダーズは上場企業ですから、社長交代が正式に決定した後は株主総会を含めて株主には丁寧な説明が必要ですが、反対意見などはなかったのですか。
早川 幸いにも「社長が代わるのであれば応援するよ」という声を株主の皆様からいただき、すごく背中を押してもらったと思いました。当時は個人株主様の所有割合が7割程度でしたが、反対の意見は私の耳には聞こえてきませんでした。
――上場企業を親から子に承継されたことで、「社会的にどう受け止められるだろうか」という不安感はなかったでしょうか。
早川 結果的に反対意見は出ませんでしたが、当然、上場会社は公器ですから、私自身が今後どのように説明責任を果たすかがとても大切です。IR活動、PR活動の中で、自分が今、何を考えているのか、何をしようとしているのかを丁寧に伝える場を作らねばならないと考えていました。それは不安というよりも一つのチャレンジだと、ポジティブに受け止めました。
――どちらかというと物事をポジティブに受け止める方ですね。
早川 そうだと思います。
――学生時代、米国に野球留学し、その後、オリックスで6年間、ビジネスマンとして働かれました。なぜ野球留学をされたのですか。
早川 千葉県の成田高校で高校球児として甲子園を目指していました。私が高3の時には千葉県大会のベスト16で負けてしまい、日本の大学で野球を続けるか、米国に行くかと迷いました。ちょうどメジャーリーグでイチローさんや大魔神の佐々木主浩さんがシアトルマリナーズで大活躍されていたころです。その試合を見に行こうとアメリカに行ったのです。佐々木さんが9回に出てこられて、パシッと3人で抑えました。スタンディングオベーションで日本人が称賛される姿を見て鳥肌が立ちました。その時、私もいつか同じような瞬間を味わいたいと思い、アメリカで野球を続けることを決断したのです。
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文武両道の米国野球

――現地の英語学校に1年間通い、翌年にカンザス大学に入学されました。大学では野球漬けですか?
早川 野球ばかりではありません。アメリカの大学では、学業の点数が悪い場合は試合に出場できません。私の場合、英語力がまだ十分でなかったので、アスリート・デパートメントの方から家庭教師を3人つけてくださり、練習後に家庭教師と一緒に勉学をして、単位を取りました。文武両道で野球と勉強とを両立させるところがアメリカの大学のいいところです。
――野球の成績はどうだったのですか。
早川 私が所属していた大学は中西部の大学が集まるビック12というリーグに所属し、3年の時にリーグ優勝し、全米大会に出場しました。私は中継ぎ投手でした。ピンチの場面や2対1で勝っている試合の8回といった緊迫した場面に、「良太郎、行ってこい」と言われ、マウンドに何度も上がりました。
――そのまま大リーグに行きたいとは思いませんでしたか。
早川 チームメートには大リーグに行くメンバーがたくさんいました。でも私はドラフトにかかりませんでしたから、次の道はありませんでした。メジャーリーガーになった仲間を目の前で見ていたので、自分はここまでのレベルだなと、野球をきっぱり諦めました。専攻は経済学だったので、いったん日本に帰って、仕事を学び、将来アメリカで仕事をしようと、当時は考えていました。
――その後オリックスに入られました。
早川 卒業した夏に留学生向けのキャリアフォーラムが東京・有楽町であり、オリックスの面接を受けました。父が銀行員だったので金融関係がいいのではないかと思ったことと、オリックスがプロ野球球団を持っていたことが決め手でした。面接はとんとん拍子で進み、受かりました。野球のお陰かもしれません(笑)。
オリックスで学んだ多様なビジネス

――オリックスで6年間、どんなお仕事をなさったのですか。
早川 リーマンショックがあった2008年に入社し、2年目に法人営業からエコプロダクトチームという環境ビジネスを手がける部署に配属されました。オリックスがファイナンスから事業にシフトしようとしていた時期です。そこで私は水をテーマにビジネスを立ち上げるという特命チームに加わりました。
――どんなプロジェクトに取り組んだのですか。
早川 一つは上下水道事業です。地方自治体の予算が縮小される中でインフラが老朽化していることが当時から問題になっていました。それをオーバーホールするために、オリックスが提供できるファイナンス・サービスはないかと国内外の事例を調査・研究しました。またペットボトルのパッカー事業をしている会社とタイアップして、オリックスが水のペットボトルを商品化できないかといったことも検討しました。世界には水メジャーといわれる会社があるのですが、どうやったら日本企業が水メジャーに対抗できるかを検討しました。
そのチームでは最年少ですから雑用係も含めて先輩社員をどう巻きこんでいくか学び、役員会の資料の準備などもいろいろ経験させてもらいました。最後の2年間は神戸支店に配属となり、中小企業から上場企業までの営業を担当しました。オリックスの6年間で本部チーム、支店チームと属性が違う組織で働き、営業スタイルも違う仕事をしましたので、いろいろなビジネス経験を積めたと思います。
海外でのチャレンジ求め、ストライダーズへ

――その後、父親が社長を務める事業投資会社のストライダーズに入社されます。どういう経緯だったのでしょうか。
早川 オリックスで6年間お世話になり、今後は海外でチャレンジしたいと考えていました。そんな考えを父に伝えると「ストライダーズはこれから海外事業を伸ばしていきたい。ジョインする気があるか」と言ったのです。ちょうどそのころ30歳を迎え、一つの転機ではないかという思いもあり、ストライダーズに入社をすることになりました。
――父親が経営する会社に入ることに躊躇はありませんでしたか。
早川 正直迷いはありました。父と一緒に仕事をやっていけるのだろうかという漠然とした不安もありました。ただ一方で大きなチャンスではないかとも 思いました。父が海外で色々と経験してきたことは知っていました。一緒になって会社を大きくすることができるのであれば、トライしてみようと決断したのです。
――入社後、経営企画部長になられて、どんな仕事をなさったのでしょうか。
早川 ストライダーズはアジアをビジネスの主戦場と考えています。当時はタイ、インドネシア、台湾、スリランカなど東南アジアから南アジア にかけての国の企業と連携しようとしていました。タイでは広告代理店に資本参加をしました。広告代理店は色々なスポンサーと関係を築いているので、地場企業とのネットワークが広がりました。スリランカは30年の内戦が終わった時期でした。これから「平和の配当」で大きく伸びていく可能性がある国だと考え、観光業から始めて、将来は生産拠点として日本企業とも様々な連携ができるのではないかと模索しました。
――父親である社長とはどのような役割分担だったのですか。
早川 数年間は、父のビジネスのやり方を学ぶ時期でした。経営企画部長として情報収集したり、事前の調査をしたりしながら、徐々に商談もするようになりました。
ゼロから始めたプロジェクトとしては、台湾のプロジェクトがあります。当社のグループ会社にモバイルリンクというトラック用の車載端末システムを販売する会社があります。その車載端末を台湾で作り、日本で売るというプロジェクトです。台湾の財閥企業との連携だったので、お互いにカルチャーが違う環境下で、台湾での製造から日本での販売までを一気通貫に展開していく戦略をつくり上げました。結果的には失敗してしまいましたが、多くのことを学びました。
コーポレート・スローガンを「挑戦者達と共に闊歩する」に

――社長就任後、意識的に企業風土や経営のあり方を変えようとされていますが、なぜでしょうか。
早川 今までの会社の歩みは、ずっと銀行員だった父が社長になり、M&Aの仲介をやりながら再生ビジネスを進めてきました。つまりある程度、株価の割安なところに投資をし、再生した上で、高い収益化を目指すという事業体でした。もちろん私もその事業は継続するのですが、日本の社会がより成長するための可能性を見つけたいと考えています。そのためには成長する企業や挑戦する人たちをもっと応援をしなければいけません。
そうした理念をしっかりと構築しようと思い、社長就任後に「Stride With Challengers」というコーポレート・スローガンをつくりました。「挑戦者達と共に闊歩する」という意味です。挑戦者が増えないと、世の中は豊かになりませんし、様々な社会課題も解決できません。挑戦を体現する企業文化をつくりたいと強く思っています。
時代はどんどん変わります。価値観も常にアップデートされていきます。より公平に透明化することは必須のキーワードの一つです。株主の方は当然大事なのですが、今の時代は、社員や一緒にビジネスをしているビジネスパートナー、地域の方々、もっというと地球をまるごと大事に考えないといけない時代です。そんな時代背景の変化がコーポレート・スローガンには反映されています。
――そうした取り組みに、父親から異論は出ませんでしたか。
早川 父は、私が考えていることには賛同し、応援してもらう立場です。私が社長になった1年目は父との共同代表という形でしたが、2年目に父は代表取締役から降りましたので、自分の色を鮮明に出すようにしました。
――どのような思いで、社長として決断されますか。
早川 何をするにしてリスクがありますが、そのリスクをテイクしていこうと考えています。それは、アメリカに留学したころからのストーリーもそうですが、色々なリスクがある中で困難を乗り越えていきたいというのが、私の基本的な考え方です。当然恐れや不安、プレッシャーはありますが、それらを一つの糧として、乗り越えていこうと前向きに受け止めて決断しています。
――誰かに相談されるのですか。
早川 プレッシャーを感じたり、不安に思ったりした時は、仲間に話を聞いてもらいます。大学時代はチームメートがいましたし、今は仲間が社員だったり、外部の友人経営者だったりしますが、彼らに話を聞いてもらい、一人でプレッシャーを負わないようなメンタルづくりはしています。
昔から私のことを知っている仲間が「良太郎は様々なチャレンジをしてきて、こういった人生を歩んできたのだから、今回も新たなチャレンジを乗り越えていけるんじゃないか」と背中をポンと押してくれたのだと思います。
メッセージの明確化は時代の要請

――会社のメッセージを明確にするというのは上場企業だから必要なのでしょうか。
早川 上場企業だからというよりも、時代の要請だと思います。今の時代は、自分たちが何をやっているかをよりオープンに、より明確に出していくべきでしょう。もしも上場企業でなかったとしても同じようなことをやっていたでしょうね。
――ストライダーズの傘下には不動産会社やホテルなどの グループ企業があり、そこで150人近くの社員の方が働いていらっしゃいます。企業理念をオープンに示すということは、その社員の方々へのメッセージとして意識されていませんか。
早川 おっしゃる通りです。ストライダーズはホールディングスカンパニーとして投資事業をし、経営管理をしています。グループの社員がその理念や思いに共感しないとグループ経営はうまくいきません。ステークホルダーの中でグループ社員は、一番大事 だと思っています。事業を通じて社会を良くしていきたいという思いを今後一層、浸透させていきたいのです。ワークショップなど一緒に体験する時間をつくっていきます。
上場会社には一定の制約は確かにあります。常にステークホルダーから評価をされ、クリアしなければならないハードルも多い。しかしグローバルに世界に出ていくことを考えると、上場企業であるメリットはあります。自分たちの考えている理念、つまり世界が良くなっていくような事業活動を継続していくという理念はぶれないようにしていきたいですね。
既存事業と「ウェルビーイング」の掛け合わせで新事業を

――今後の事業展開で期待している分野は何でしょうか。
早川 ベンチャー企業向けの投資です。ベンチャーをサポートする投資を加速していきます。しかも国内だけではなく海外、特にアジアと日本とを結びつける事業への投資やサポートをしたいと考えています。
領域としては、不動産、ホテル、海外事業という既存の分野を軸にして、そこに様々な掛け算をしていきます。不動産やホテル事業にテクノロジーを駆使した新しいサービスを付加していくことなどが考えられます。
その際に大切なのは心身ともに健康的な状態を維持するという「ウェルビーイング(Well-being)」という考え方です。ウェルビーイングは私のキーテーマでもあります。ヘルスケアや食料問題、そしてエンターテインメント、アート、スポーツといった領域にもチャレンジしていきます。スポーツやアート、音楽といった日本の強みを新しいテクノロジーを使って、多様な事業と掛け合わせて収益化していくことを考えています。具体化はこれからですが、期待してください。
(文・構成/安井孝之)
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