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年間売上は「社員1人の年収くらい」父の会社はどん底だった… 経営を引き継ぎ、建て直した元シャープ社員「ダメな社員を見限ったらダメ」

1896(明治29)年に創業した大阪・梅田のセントウェル印刷株式会社。自社で印刷機を持たずに外注するスタイルで幅広い種類の印刷物のデザイン・制作をできるのが強みだ。創業者のひ孫にあたる代表取締役会長の中井利夫氏(73)は、大手メーカー社員から従業員10人に満たない家業に戻り、ネット黎明(れいめい)期に独学でホームページを立ち上げ、経営を立て直した。中井利夫氏に、家業を引き継いだ経緯を聞いた。

家業に縛られたくない、シャープに入社

——家業を継ぐという意識は小さいころからありましたか?

私が子どものころ、父は大阪・船場に小さな家を買って会社を営んでいました。家族は上階で暮らしており、私と弟(中井三夫・現社長)はそこで育ったのです。父の仕事を日々見ながら、「長男の私はいずれこの会社を継ぐことになるのかな」と思っていました。

——にもかかわらず、大学卒業後に大手電機メーカー「シャープ」に就職されたのはなぜですか?

当時の日本は景気もよく、企業がどんどん海外進出をしている時代で、「自分も世界で活躍してみたい」という気持ちが芽生えていました。かたや、父の仕事はあまりうまくいっていない様子で、そんな家業にずっと縛られることに、大きな抵抗を感じたのです。

就職活動も売り手市場で、いくつか大手企業に内定をもらい、世界にはばたこうとするメーカーを選んだのです。1972年のことでした。

営業がぴったり、やればやるだけ売れた

——シャープ入社後はどのような仕事をしていましたか?

私はとにかく家から離れたい、遠くに行きたいと思っていたので、配属は北海道か九州の営業所を希望しました。結局、東京に配属が決まり、広報部に配属されました。入社1面目から、経団連に行って新製品の記者発表をするのが主な仕事でした。

——そこからどのような経緯で営業担当に転身したのですか?

入社して1年経った頃、家電不況の波が襲い、社内で人事や広報のような間接部門を縮小して営業や製造に人を回す動きがありました。広報部の仕事に物足りなさを感じていた私は、ここぞとばかりに営業職を希望しました。

電卓を販売する子会社に出向となり、秋葉原の家電店で営業をしたのですが、性に合っていたようです。やればやるだけ売れて、営業成績で表彰を受け、非常にやりがいを感じていました。

今、継がなければきっと後悔する

——シャープで活躍していたのに、なぜ家業を継ぐことになったのでしょうか?

そのころ、弟から実家の会社が非常に悪い経営状況であると聞いていました。父は不安を酒で紛らわすような暮らしをして、体を悪くしていました。

このままではおそらく会社はつぶれる。でも、仮に自分が会社を継いだとしても、うまくいくとは限らない。シャープにいれば、高給で将来も安泰です。ずいぶん悩みました。

——家業を継ぐ決断をした理由は?

やかり、父は1人だけなので、死んだら終わりです。今、自分ができることをして父を支えなければ、必ず後悔する。そんな後悔だけはしたくない、という気持ちが一番強かったです。

そのときに、親友の父親が言ってくれた「中井君だったらやれるよ」という一言に背中を押され、会社を辞めて実家に戻ることを決めました。東京に出てから丸3年が経ったころでした。

年間売り上げ「社員1人分」

——実家に戻って、会社はどのような状態でしたか?

経営は、考えていた以上に厳しい状況でした。負債こそないものの、年間の売り上げが社員1人の年収分ぐらいしかありません。とても私が給料を受け取る余裕はないので、昼間は家業、夜は別のアルバイトに出ていました。

日中はとにかく仕事を増やそうと、あちこち営業に回りました。営業は大好きですから、デスク作業に比べれば苦になりません。手始めに、大学の友達が就職した会社に営業して、さらに紹介を受けたりして、そのうち不動産広告の仕事がたくさんもらえるようになり、売り上げは上昇しました。

——経営状況は上向いていったのでしょうか。

借金を返済する必要があったので、やっぱり利益は出ませんでした。しかし、がんばっている社員に給料を出さないわけにはいきません。父は借金を恐れるタイプでしたが、私は国の制度融資などをためらわずに活用し、借金でやりくりしていました。

一時は借金8000万円程度まで膨らみ、返すのが精一杯。好調だった不動産関係の広告の仕事も、バブルの崩壊後は途絶え、苦しい状況が続きました。

「商売人」から「経営者」へ

——そんな経営状態から脱却するまで、どんな転機があったのでしょうか?

いよいよ首が回らなくなってきた1998年、神田昌典さんの本『小予算で優良顧客をつかむ方法』(ダイヤモンド社)に出合いました。この本で初めて「マーケティング」という概念を知り、実行してみました。

たとえば、ファックスでDM(ダイレクトメール)を送る際、どんな文章なら反応はいいか。工夫を続けているうちに少しずつ手応えが見えてきました。

さらに、2000年頃からインターネットが普及しはじめ、独学でホームページを作ってみました。これが成功し、ホームページを見た人から問い合わせが増えました。直接行って売り込みをしていたのが、「待ち」の営業もできるようになったのです。

また、大きな転機となったのは、2003年に中小企業家同友会に入ったことです。さまざまな業種の経営者に出会い、たくさん勉強させてもらいました。そのひとつが、「人材育成」です。

それまでの私は、「この社員はダメだ」と判断したら、見限っていました。自分を「経営者」でなく「商売人」だと思っていたんです。商売人にとって人は「使うもの」ですが、経営者にとって人は「育てるもの」だと理解しました。

こうした地道な努力の積み重ねで、借金も返済が進み、利益が出るようになったのが2015年ごろのことです。今では、ホームページを窓口に年間1000社ほどの顧客と取引をするまでになりました。年間売上高も「社員1人分」だったのが、1億5千万円(2024年3月期)を超えるようになりました。

——正式に会社を承継した時期ときっかけについて教えてください。

家業に戻ったのが25歳、正式に社長に就任したのは41歳、1992年でした。父の大学時代の友達が会社の税理士をしていたのですが、だいぶ年をとったので引退することになり、父も一緒に引退しました。承継するのは少し早すぎたかなとも思うのですが、父はそれからきっぱりと会社には来なくなり、肩の荷を下ろしたようで、家で母とふたりで気楽な生活を送るようになりました。

中井利夫プロフィール

中井利夫(なかい・としお)1951年生まれ。大学卒業後、シャープ株式会社に勤務、営業担当として力を発揮する。のち、曽祖父が創業し父が再興した株式会社中井商会(1981年にセントウェル印刷株式会社に名称変更)に入社。父・弟とともに経営に携わる。同業他社に先駆けたホームページの運用など新しい手法を取り入れつつ、デザインから提案できる印刷会社として幅広い業種の顧客を開拓。1992年41歳の時に父から事業承継し代表取締役社⾧就任。現在は弟・三夫氏に社長を譲り、代表取締役会長。

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賢者の選択サクセッション編集部

日本の社会課題である事業承継問題を解決するため、ビジネスを創り・受け継ぐ立場の事例から「事業創継」の在り方を探る事業承継総合メディア「賢者の選択サクセッション」。事業創継を成し遂げた“賢者”と共に考えるテレビ番組「賢者の選択サクセッション」も放送中。

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