「流されるように」家業を継いだ、意欲の低い5代目 マインドを変え、閉鎖的なびん業界の枠を破ったきっかけとは

大正時代から続くガラスびんメーカー「大川硝子工業所」を営んできた家に生まれ、長男であることから漠然と家業を継ぐ未来を想像していた大川岳伸氏(45)。音楽が好きで週末はDJ活動に勤しみ、2008年に家業に入社した後も、仕事への意欲は決して高くなかった。しかし、そんな5代目が、閉鎖的なガラスびん業界の枠を破り、売り上げを伸ばしている。なぜ、マインドを変え、事業を成長させることができたのか大川氏に聞いた。
目次
都の公害規制の対象となり、やむなく事業を転換
−−−−大川硝子工業所の歴史をお聞かせください。
1916年に創業し、創業109年目を迎えるガラスびんを取り扱う会社です。長野県から上京した初代・清作が鐘ヶ淵紡績(現・カネボウ)で火の持ち場の仕事をしており、その技術を応用してガラス業に入りました。
2代目の清造もガラス業に従事し、後に独立して押上に大川硝子工業所を構えました。創業当初は、目薬を入れる点眼びんなどを人工吹きでつくり、製造工場と15人の従業員を抱えるメーカーとして事業を拡大していたと聞いています。
その後、関東大震災や太平洋戦争などで会社と工場の焼失・再建を繰り返して墨田区内を転々としつつ、最盛期は自動製壜機にて食品用のびんなどを製造していました。しかし、昭和50年代に入ると全国的に公害問題が騒がれ始め、当社も排ガスと騒音が東京都の公害規制の対象になり、操業停止を余儀なくされてしまったのです。
そのため3代目・寛次のときに生産は外部に委託。メーカーとしての立場を退き、ガラスびんの企画・販売へジョブチェンジして今に至ります。業界でもメーカーから問屋へというパターンは少ないんですよ。
−−−−ジョブチェンジしてからはどのような事業内容になったのでしょうか?
大手メーカーの販売店という側面もありますが、企画もできるので、顧客要望をメーカーとの間でコーディネートをしたりしています。もともと当社は元メーカーとしてのノウハウが豊富にあるので、顧客が望むデザインや費用に応じて、かゆいところに手が届くような提案をできるのが強みですね。
昔から扱っている主力商品としては、蜂蜜用のびんです。国内の養蜂業はだんだん縮小しつつありますが、関連会社との取り引きもあって、現在も売り上げの多くを占めています。なお、当社で取り扱っているガラスびんはすべて日本製です。
音楽に夢中で、仕事への熱意は決して高くなかった20代

−−−−子ども時代にいずれ家業を承継する意識はあったのでしょうか?
明確にはありませんでした。我が家は4人姉弟で男は私一人。工場など自営業の家庭が多い土地柄もあり、なんとなく長男は家業を継ぐみたいな風潮の中、漠然と「いずれ継ぐのかな」と思っていた程度で、事業内容すら理解していませんでした。
大学で食品化学工学科に進学していますが家業に関わりがあるからではなくて、そこに入れたから行ったくらいの感覚です。
当時の私は音楽好きが高じてバンドやDJ活動に夢中でした。続けていれば自然と音楽に関係する仕事ができると本気で思っていましたし、将来についてあまり深く考えていませんでした。
卒業後は、口利きで入った飲料メーカーで4年間ルート営業を務めましたが、途中から飲食業への興味が出て、会社員と並行して近所にできた飲食店で無給のアルバイトをしていました。その後脱サラして異なる飲食店で2店舗ほど働きましたが、結局飲食業を続けることを断念しました。
根っからの文化系である私には、飲食業は体力的にも精神的にもきつく、理想と現実の違いを痛感しました。
−−−−大川硝子工業所に入社するきっかけをお聞かせください。
当時二十代後半だった私は、飲食業への気持ちも薄れ、気持ちも生活が安定していないため色々と迷っていたとき、母から「父が家業を継いでほしいと言っていた」と聞かされたのです。
子どもの頃から漠然と家業を継ぐイメージは少なからずともあったし、このまま不安定な生活を続けているよりは、継ぐ方がまだマシな人生なのかもというような気持ちで、逃げ帰るように2008年に家業に入りました。
当時は、リーマンショックなどで不況の波が押し寄せていた頃です。一番の取り引き先が倒産してお金が回収できなかったり、メインのメーカーが倒産したりと、かなり厳しい経営状況でした。
それでも、半分流されたような経緯で入社したこともあり、私は会社や業界の深刻な状況は知っていても、どこか他人事のような気持ちでした。このようなボンヤリとした日々は、3年くらい続きました。
友人からの言葉、漠然とした日々にピリオド
−−−−転機となったきっかけと事業を承継した経緯を教えてください。
DJ活動を通じ、フリーランスデザイナーの友人が多くいました。私よりも年下の彼らは、皆楽しそうに仕事をやっていることに、ある日気づきました。
ある時、友人の一人が「1日のうちの多くの時間は仕事に割いているんだから、嫌々やるのは健全じゃない。仕事が前向きにできたら人生すごいハッピーだよね」と言われたのです。よく考えると当たり前なのですが、当時の私の心に強く響きました。
それまでの私は仕事を「やらされるもの」「こなすもの」だと捉えていて、これまで何をやっても中途半端でした。そんな私が、「自分らしくポジティブに仕事をするにはどうすればいいんだろう」と考えるようになりました。友人の言葉のおかげで、入社以来の漫然とした日々に終止符を打てました。
2016年に創業100周年を迎えました。会社の節目の年でもあり、私が入社してから8年目を迎えていたので、父から事業を承継して5代目になりました。私は肩書きにこだわりがなく、事業承継に対しても特別な感慨などはありませんでしたが、承継は自分の元気なうちにやっておきたいという父(4代目・精一)の判断でした。
自身の色を発揮したWebからの発信で新たな客層を獲得

−−−−新しく始めた試みについてお聞かせください。
ガラスびん業界は閉鎖的だったため、不況のあおりで市場規模が小さくなっているのに、中小のガラスびんの会社は少ないパイを同業者で奪い合っている状況でした。
そこで、パイを広げるために当社がほとんどやっていなかった営業を強化しようと考えました。しかし、ガラスびんを扱っている会社は多く、飛び込み営業でどこにでもあるようなガラスびんを持って行っても売れるわけがありません。
また、当時はECサイトが普及したことで、大きな倉庫を持っている会社が大量に仕入れて、ネット上で同業者価格のような値段で販売しているところも増えてきました。そうなるとお客さんがネットで見た商品を当社で買おうとしても、価格帯は最低でもネット販売しているお店と同じ、もしくはそれより安くないと買ってくれません。
価格競争の土俵に乗ることはできないので、まずは「当社の魅力をいかに広く伝えるか」を考え、取り急ぎ自社サイトを開設することから始めました。
友人のwebデザイナーと同業他社のサイトを研究したうえで、当社の考え方や商品の見せ方を自分なりの表現に落とし込むため、びんのなかに入れる食べ物を自作したり、写真や言葉選びのディレクションにも関わりました。
デザイナーの友人が多くいたのと、DJ活動時にずっとイベントの告知をSNSでやっていたことで、自然と表現のスキルが身についていたのかもしれません。
この時期はインスタグラムが普及しはじめたころでもあったので、アカウントをつくって発信を始めました。とにかくお金がなかったので、完全DIYで当社の魅力を伝えることに注力したのです。同時に、昔からあった当社の製品のリブランディングもしました。
これらの取り組みがすぐ反映したわけではありませんでしたが、あるときキュレーションサイトで当社の地球びんが取り上げられたり、インスタグラム経由で問い合わせや新規の発注があり、ネットを通じて同業者以外のお客様と直接取り引きできる手応えを得たのです。
取り組んできた発信が、気づいてほしい人に気づいてもらえたことを実感し、会社として勝負する土俵が見えてきた瞬間でした。閉鎖的だったこれまでの体制を続けていても会社が伸びていくことはまずないので、違う客層や業種に関わっていく芽生えが出てきた機会でもありましたし、いつしか仕事は「自分らしく」「楽しい」ものになっていきましたね。
プロフィール
株式会社大川硝子工業所 代表取締役 大川岳伸
1979年、東京都墨田区生まれ。日本大学生物資源科学部卒。
4年間のサラリーマン生活と2年間の飲食店勤務を経て、2008年に大川硝子工業所に入社。2016年に5代目の代表取締役に就任し、ホームページやSNSで自社製品の魅力と強みを発信し、廃盤寸前だった自社製品のリブランディングに着手。良品計画、BEAMSなど大手企業との取り引きで事業を拡大。専門学校東京デザイナー・アカデミーとガラスびんの新たな可能性を見出す商品開発や環境問題の啓発活動など、さまざまな取り組みを精力的に行う。
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