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溶けにくく硬い「氷」のブランドを確立した雪国の老舗企業 冷蔵庫の登場で「氷屋」がほぼ消える中、生き残った戦略とは 北陸新幹線も追い風に

石川県金沢市で1923年から氷を商ってきた「クラモト氷業」。かつて「国民の生活必需品」だった氷屋の氷が、冷蔵庫の登場で無くなっていく中、2023年に創業100周年を迎えた。10年前からは自社での製氷に踏み切り、高品質なブランド氷「金澤氷室」を確立、日本で初めてアメリカに業務用氷を輸出するようになった。大きな転換に、父と共に取り組んだ5代目・蔵本和彦代表取締役社長(38)に話を聞いた。

かつて、氷は生活必需品だった

−−−−クラモト氷業は、2023年に創業100年を迎えたそうですね。

創業したのは僕の祖父の祖父で、僕で5代目です。元々は「蔵本商店」という屋号で、他にも様々な商品を扱い、氷はその中の一つでした。

かつて、氷は国民のインフラでした。熱が出れば氷で頭を冷やし、氷を収納して冷気で冷やす「氷式冷蔵庫」も一般的でした。生活必需品だったんです。

1960年代に電気冷蔵庫が普及し始めた時が、一番のピンチだったと聞いています。冷蔵庫に氷が必要なくなり、氷自体を冷凍庫で作れるようになりました。当然、氷屋の出番は減ります。

当時の金沢市には50軒ぐらい氷屋があったらしいですが、2025年現在は4軒に減っています。

3代目だった祖父の時代に氷専業の会社になり、1978年に法人化して「クラモト氷業」となりました。氷屋の出番が減るなかで氷専業の道を選んだ理由は、祖父が氷のさらなる可能性を感じていたこともあるでしょうが、それ以上に純粋に氷が好きだったようです。

氷には人を喜ばせる力がある

−−−−氷の魅力とは?

子どものころ、夏休みに父の配達先に連れていってもらうことがよくあったのですが、とくに動物園に配達したことが非常に印象的でした。配達先はそのような施設やイベント、飲食店とさまざまですが、僕たちが氷を持っていくところはほぼすべて、みんなが笑顔だったのです。

家業だから僕も氷が好きだったのですが、仕事を始めてからお客様の笑顔や驚きを見て、これだけシンプルなものなのに、人を喜ばせる大きな力があることに気づいて、さらに好きになりました。おもしろい商材だなと思います。

−−−−クラモト氷業の強みは?

一番大きな強みは、自社で製氷していることです。一般的な氷屋は、氷を作らず、「原氷」という大きな氷を製氷会社から仕入れて、加工して売ります。僕たちもずっとそうしてやってきました。自社で製氷事業を始めたのは、約10年前からです。

うちの氷の特徴は、溶けにくいこと、そして透明なこと、硬いことの3つです。マグネシウムやカルシウムなどの含有量を限りなくゼロに近づけることによって、溶けにくい氷ができます。やや高めの温度でゆっくり、かつ水を動かしながら凍らせることで、完全に水だけを凍らせることができるのです。

また、加工の段階にも強みがあります。製氷会社は取引先が氷屋なので、直接のユーザーの声は届きにくいのが普通です。しかし、うちは氷屋の時代から100年、お客様と直接会話し続けてきたので、どんな氷が求められているかがわかります。いい氷を作り、求められる加工をすることで、最高の状態の氷が届けられると思っています。

営業マンとしてキャリアを積み、家業へ

−−−−蔵本代表は、自分が家業を継ぐという意識は小さいころからあったのでしょうか。

幼稚園の文集にも「氷屋になる」と書いているので、すごくやる気がありました。ただ、僕が一方的に考えていただけで、父からは「継げ」と言われたことはないですね。「継いでくれればうれしいが、好きな道を行けばいい」と思っていたようです。

高校は商業系、大学は経済学部に進学しました。将来の選択肢がもっとあれば、たぶんもう少し勉強していたと思いますが、氷屋を「体を動かせば稼げる」ような仕事と考えていたので、勉強は二の次になっていました。

−−−−大学卒業後のキャリアを教えてください。

はじめはクラモト氷業の関係会社に勤める予定だったのですが、父が「就活」を忘れていまして、慌てて自分で就活を始めました。僕は人と話すことが好きだったので営業をやりたくて、ゼミの先生の紹介で、配電盤を作っているメーカーに就職しました。

そんなに大きい会社ではないので、営業だけでなく設計から配達、組み立てまで一気通貫で経験させてもらいました。商材の知識が身について自分で売れるようになるとやっぱり楽しかったです。エンジニアが多く、僕のような営業らしい営業がいなかったので重宝されて、「将来は営業のトップになってくれ」と言われるぐらいになりました。

−−−−その後、クラモト氷業に入社した経緯は?

大学卒業時の2007年、まだうちに製氷工場がなく、氷業界もあまりいい状況ではないこともあって未来が見えなかったので、いつ戻れるのかはっきりしていなかったんです。

2年半後、ポストが空いたから入ってくれないかと父から打診され、入社しました。はじめは顧客に挨拶に回り、後継ぎとして温かく受け入れていただき、クラモトでの仕事をスタートしました。

製氷工場を作っていなければ倒産していたかも

クラモト氷業加工
氷の加工(写真提供/株式会社クラモト氷業)

−−−−2014年に製氷工場を実現したそうですね。

僕が入った2009年当時、会社の業績はそれほど上がらず、むしろ将来的に見れば下がっていくだろうという見込みでした。僕自身まだまだ未熟ではありましたが、いろいろ勉強しながら仕事を覚えていきました。

製氷工場は、祖父の時代からの悲願でした。製氷会社が増えて氷の価格が下がり、利益が出ない製氷会社も多くなってきて、「いつ倒産して仕入れられなくなるかわからないから、自分たちで作らなければ」と祖父は考えていたようです。しかし、父が製氷をしたかったのは、ブランド化や付加価値化を意識してのことでした。

僕が入社したころは年商8000万円程度、少し上がっても1億円程度。工場にはおおよそ2億5000万円の投資が必要になりますが、年商の2.5倍の投資となると、銀行は当然渋ります。

工場を作っても仕入れがなくなるだけで、売り上げが伸びる保証はない。氷屋から製氷会社になった事例がなかったこともあり、事業計画がなかなか認められませんでした。ただ、そのときに担当してくれた銀行の営業の方がかなり力を貸してくれて、なんとか実現にこぎつけられました。

−−−−工場をスタートしてからの動きは?

やはり売り上げはすぐに伸びたわけではありません。ただ、選択は間違っていませんでした。その後、僕たちが仕入れていた製氷会社が倒産しているので、もし数年遅れていたら仕入れができなくなり、うちも倒産していたかもしれません。

工場を作った翌年の2015年、タイミングよく北陸新幹線が金沢まで開業して、顧客の中心である飲食店が活性化したことも追い風になりました。さまざまな状況を考えると、運がよかったといえるでしょう。

こうして自社工場も整い、クラモトの氷のブランド確立に向けてスタートを切ることができました。

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プロフィール

株式会社クラモト氷業 代表取締役社長 蔵本和彦氏

1985年、石川県金沢市生まれ。金沢星稜大学を2007年に卒業後、配電盤メーカーに勤務し営業を担当。2010年、父が経営する大正12年(1923年)創業のクラモト氷業に入社。営業、加工、配送のほか、ブログやSNSでの情報発信と自社製造氷のブランディングに取り組む。2019年、日本で初めて業務用飲料向け氷の米国輸出を開始。専務取締役を経て2024年に同社代表取締役社長に就任。創業者から数えて5代目となる。

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