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「たねやも終わりだ」バカボンと呼ばれた4代目 なぜ「ラ コリーナ」やバームクーヘンを成功に導けたのか~たねやグループの事業承継【後編】

創業152年を迎える菓子の老舗「たねや」(滋賀県近江八幡市)。和菓子店として伝統の菓子を作り続ける一方で、バームクーヘンで知られる洋菓子の「クラブハリエ」、お菓子のテーマパーク「ラ コリーナ」など多彩な展開で成功し、2022年は過去最高売上げを達成しました。たねやグループ の山本昌仁CEOに、たねやの経営哲学を尋ねると、その根幹にある「柿の色」の秘伝書について教えてくれました。

ボンボンと呼ばれることへの葛藤

「まあ、悪ガキでしたよ。勉強もろくにせずにね」。少年時代の山本氏は、弟の隆夫氏(現クラブハリエ社長)と2人で、バカボン1号と2号と呼ばれ、「たねやも、この代で終わりだ」と言われるほどでした。

「たねやのボンボン」と呼ばれることに戸惑い、「なめられている」と勘違いして悪いことばかりしていたといいます。目立ちたがり屋で「山本昌仁ここにあり」と振る舞い、商家の連なる近江八幡市街を屋根から屋根へ飛び移り、走り回るようなこともあったといいます。

しかし、山本氏は、幼い頃からお菓子屋に興味を持っていました。それは、親を見ていると、大変さを感じながらも、楽しそうに仕事をしている姿があったからだといいます。

父の背中「ホンマに熱い人やなあ」

山本氏の父・徳次氏は、どんなことも自分でこなす人でした。当時、スタッフ数も少なかったため、1から10まで自分で手掛け、少しずつ組織を築いていきました。

山本氏が小学校6年生の時、徳次氏は東京進出を仕掛けます。当時、滋賀県の企業は、京都や大阪で実績を残し、東京に進出するのが一般的でした。しかし、徳次氏は「確固たる名を残すには東京」と考え、東京の日本橋三越に進出します。

「お菓子には季節があるんや」。当時の百貨店は、季節に関係なく、いつでも柏餅や桜餅が売られていました。「たねや」は、かしわ餅を売る日、桜餅を売る日、水羊羹を売る日と季節感を全面に押し出し、その工夫で東京進出は成功をおさめていきます。

その頃の徳次氏は、家に帰っても仕事の話ばかり。山本氏は、子どもながらに「この人、ほんまに熱い人やなあ」と感じていました。

ピンポン球を手放さず、饅頭を包む練習

山本氏が、「たねや」を継ぐことを意識したのは中学生時代でした。「継ぐというより、絶対それしかできない。もうこれが自分の生活なんだと思って。10代で修行にでました」。10年間、東京と姫路の和菓子屋で修行をしました。

「お菓子屋なら、経営よりもお菓子のことを知らない。でも、実家で修行すると甘えてしまう」。山本氏は、食の人間国宝に認定された先生につきました。「先生がよかったのは、毎日お菓子の話ばかりで、お菓子を触らせてもらえなかった」と振り返ります。

お菓子はプロが触るもの。素人の山本氏は触ることを許されず、卓球の球を使って饅頭を包む練習を重ねました。ピンポン球のブランドロゴマークを上にして、ずっと片手で回します。マークが違う方向にいくと、饅頭が綺麗に包めません。「ずっと回していろ、暇があったら持っとけ」と言われ、ずっと持っていたそうです。

そうして修行した山本氏は、形の悪いものはすぐにゴミ、という姿勢に疑問を呈します。「もったいない」というのもあるが、「形の悪いものを作った自分が悪い。100個作ったら100個きれいに作るのがプロ、という話を先生によくされた。そこが大きな学びになりました」と振り返ります。

「たねやを継ぐ」ことは周囲から

1990年、山本氏は21歳で「たねや」に職人として入社しました。並行して修行も続け、「たねや」と往復する生活を続けました。

山本氏は、菓子職人としての腕も確かです。4年に1度開かれる「全国和菓子大博覧会」で、最高賞の「名誉総裁工芸文化賞」を当時史上最年少の24歳で受賞しています。

優秀な職人として「たねや」で働いていた山本氏ですが、周囲の菓子作りの先生たちから、いずれ事業承継することは告げられていました。一方で、父・徳次氏からは事業承継のことは一度も言われなかったといいます。

「父が上手だったのは、自分から言わずに、第三者から言わせていたこと。ブレーンの先生方や近所の人からも言われ、結構効き目があった」。父親に直接言われたら反発し、対立するだけだったと語ります。

実は、事業承継につながっていた

入社6、7年後、山本氏は職人から経営に入っていきます。「販売促進室」に異動になり、SP室室長という肩書きになりました。そこで、父・徳次氏から新たな任務を告げられます。

「お菓子の賞で一番星をとったんやから、今度は一番売れてへん店を全国からお客さんが来てもらえるような店にせえ」。

近江八幡市の東隣、八日市市の小さい店をまかされ、店の上階に住まわせられました。販売促進や接客などで店の改革を進め、売上げを伸ばすと、様々な取材が来るようになりましたが、徳次氏は「社長でもないから出るなと」と昌仁氏を表には出しませんでした。

また、徳次氏は「自分の右腕になるやつを10人育てろ」と告げました。山本氏は、スタッフの実力を伸ばしながら、着実に10人の右腕を見つけていきました。

父・徳次氏の真意は、山本氏に「たねや」を受け継いでもらうことにありました。

まず、職人として菓子作りの現場が分かっていないといけない。次に、職人の手がけた菓子を、どうやって世に広く売るか。そして、経営者になるために優秀な腹心を育てるか。山本氏への指示は、事業を承継するためのロードマップだったのです。

バームクーヘン、空前のヒットに

クラブハリエのバームクーヘン

そして、山本氏は30代前半で「クラブハリエ」の社長に就任します。「たねやの方に入ると親子げんかになると思った父親の戦略ですね。クラブハリエだったら失敗してもさほど影響ないと思ったんでしょう」と笑って振り返ります。

弟の隆夫氏(現クラブハリエ社長)も、クラブハリエで洋菓子職人として修行しており、兄弟で大阪梅田の阪神百貨店への出店を計画します。

当時、バームクーヘンはまだ百貨店向きではないと見なされていたが、昌仁氏は弟と共に交渉し、丸々1本の商品を展示したりするなど、自由な形での出店を許されました。そのバームクーヘンは、空前の大ヒットとなっていきます。

社長になった瞬間、父は身を引いた

2000年代初頭、カリスマ的存在だった父・徳次氏が病気で倒れました。病気から回復後、徐々に現場から離れていきます。そして、山本氏は2011年春、42歳でたねやの社長に就任しました。それを境に、父の姿勢が一変します。

「一番ありがたかったのは、社長就任の前日まで父親にボロクソ言われていたんですよ。黒子に徹しろと。でも、社長交代したその日からは何も言わなくなりました。全部お前が決めなあかんって」。

徳次氏にも、言いたいことはあったかもしれません。しかし、きちんと一線を引いて何があっても我慢する姿勢に転じました。父親の側近たちも身を引き、後継者育成にまわっていきました。

「ラ コリーナ」誕生秘話、「私は死にません!」

社長に就任した山本氏は、数々のヒット商品を世に送り出します。中でも2015年、和菓子の「たねや」と洋菓子の「クラブハリエ」の全商品を楽しめる旗艦店「ラ コリーナ近江八幡」をオープンさせます。

もともと、徳次氏が「お菓子の館」というテーマパークの構想を持っていました。しかし、全国各地に乱立したテーマパークの失敗例を見ていた山本氏は、近江八幡の原風景を取り戻すことの方が必要だと考えていました。

国内外で意見を聞いて回る中、イタリアの建築家兼デザイナー、ミケーレ・デ・ルッキ氏と出会い「ラッコリーナ」という言葉を知ります。イタリア語で「丘」という意味の言葉は、山本氏の目指したいイメージにぴったりでした。

「お菓子の館」建設は途中まで進んでいました。それでも山本氏は、違約金を支払ってまで計画を変更します。銀行も猛反対しますが、山本氏は「父親は私より先に死にます。父が言ったことを続けるのはおかしい。私は死にません」と伝え、銀行を説得しました。

「ラ コリーナ近江八幡」は、2022年には入場者321万人を集め、2位の多賀大社の160万人を大きく引き離し、7年連続で滋賀県ナンバー1の観光スポットとなっています。

滋賀をオーガニックの街に

たねやグループの「根幹」を示すような企業があります。

グループの構成企業は、和菓子の「株式会社たねや」、洋菓子の「株式会社クラブハリエ」に加え、農業の会社「株式会社キャンディーファーム」があります。山本氏は「地球温暖化などが進む中で、私たちの菓子のために作ってもらっているものを、自分たちでしっかり育てるということが大事だと思いました」。

キャンディーファームでは、東京農業大学や立命館大学などと協力し、土づくりから始めています。滋賀県をオーガニックの町にすることを目指し、まずはオーガニックブランド作りの拠点として展開させていく計画です。

山本氏は「現在は100年、200年後に続く未来の点にすぎません。ほんの一瞬だけ私はたねやをお預かりしている。返せるときは今よりも綺麗な形で神様や地球にお返しする。そういう環境づくりをしなくてはいけないと思っています」。その思いを具現化するのが、キャンディーファームかもしれません。

「地球温暖化をはじめ、さまざまな社会課題がたくさん出てくると思います。この先の当主が、あの時1本の木を植えてくれたことで今があるんだとか、あの水を綺麗にしてくれたから美味しい水が飲めるとか。オーガニックの野菜が食べられるのは4代目が初めてくれたからだとか。そういう環境づくりをしていきたい」。その言葉には、たねやの根幹である「天平道」「黄熟行」「商魂」がしっかりと根を張っていました。

株式会社たねや

1872年(明治5年)、旧八幡町池田町の地にて創業。1984年、日本橋三越店、銀座三越店をオープン。2011年現CEO山本昌仁が四代目代表取締役社長に就任。2015年「ラ コリーナ近江八幡」をオープン。2015年より7年連続滋賀県、観光客数推計1位に輝く(2022年調べ)。2023年には過去最高売上を達成。

前編|「バームクーヘン」「ラ コリーナ」、その神髄は「柿色」の秘伝書に 全ての菓子は創業時から変わり続ける~たねやグループの事業承継

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賢者の選択 サクセッション編集部

賢者の選択サクセッションでは、⽇本経済の課題解決と発展のためには、ベンチャー企業の育成と併せて、これまでの⽇本の成⻑を⽀えてきた成熟企業∕中堅‧中⼩企業における事業承継をフックとした経営資源の再構築が必要であると考えています。 ビジネスを創り継ぐ「事業創継」という新しいコンセプトを提唱し、社会課題である事業承継問題に真摯に向き合うことで、様々な事業承継のケースを発信しています。 絶対解の存在しない事業承継において、受け継いだ経営者が事業を伸ばす きっかけとなる知⾒を集約していきます。

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