COLUMNコラム
まゆ毛や体毛の育毛剤「ミクロゲン・パスタ」だけをつくる9人の製薬会社とは ソフトバンクから来た4代目社長、新たな客層を開拓
まゆ毛、ヒゲなどの体毛用育毛剤(頭髪、マツ毛を除く)としてほぼ唯一の薬「ミクロゲン・パスタ」。わずか9人の小さな製薬会社「啓芳堂製薬」(東京都文京区)が製造・販売している。1958年の発売以来、ニッチなカテゴリでありながら、「まゆ毛が薄い」「ヒゲを生やしたい」といった悩みを持つ人たちに根強く愛されてきた。2020年に事業を承継した4代目代表取締役社長である中島健雄氏(61)に、70年近く愛されてきた軌跡と、DX化を通した新たな顧客の獲得について聞いた。
目次
創業したのは、元・講談社の雑誌編集長
−−−−啓芳堂製薬の成り立ちを教えてください。
啓芳堂製薬は、1953年に祖父・中島三郎が立ち上げた会社です。現在は、従業員はパートを含めて9人です。家業として祖父から父へ、父から兄へと引き継がれ、2020年に私が4代目として代表取締役社長に就任しました。
主力製品は、「ミクロゲン・パスタ」という頭髪・まつ毛以外の体毛(まゆ毛、ヒゲ、その他の体の毛)用発毛促進・育毛剤で、薬剤師のいるドラッグストアや薬局で購入できる第一類医薬品です。頭髪用の発毛剤は数多く存在しますが、体毛用第一類医薬品の定番品として扱われています。
――創業者の三郎氏は、どんな人物だったのですか?
祖父の三郎は、もともと大日本雄弁会講談社(現・講談社)に勤めていました。当時としてはなかなか革新的な人物だったようで、出版事業に連動して遠隔地の雑誌読者に輸入雑貨を送るサービスを開始し、これが通信販売の先駆けとなったそうです。
1930年にはサイドビジネスとして、まつ毛カール器(アイラッシュカーラー)「ビウラ」の実用新案と商標登録を取得して発売し、今につながる「毛」に関するビジネスを始めました。
1935年には講談社を退職して「啓芳堂」を創業します。太平洋戦争で自宅兼社屋が焼けてしまったのを機に、「ビウラ」の焼け残った在庫と商権を大手化粧品会社に売却し、その資金を元手に啓芳堂製薬株式会社を立ち上げました。
三郎は出版社出身で当時のメディアに精通していたため、啓芳堂製薬を立ち上げてから雑誌や新聞に「ミクロゲン・パスタ」の広告を出して販路を拡大。それが「ミクロゲン・パスタ」のマーケティング施策の基本となりました。
テレビ黎明期に有名な女性タレントを起用して生コマーシャルも打っていたそうで、新しい感覚の持ち主であり、起業家精神にあふれた人だったのだと思います。
――主力製品の「ミクロゲン・パスタ」は、いつから販売しているのですか?
三郎は、1931年に「ミクロゲン」という頭髪用養毛剤を販売していたのですが、体毛用育毛剤の「ミクロゲン・パスタ」を発売したのは、1953年に啓芳堂製薬を株式会社化したときです。以来、当社では約70年にわたって製造販売を続けています。ニッチな領域の家庭用医薬品ですが、体毛の悩みを持つ方に根強いニーズがあって、長く生き残ってこられたのです。
創業の祖父は90歳まで会長、父は89歳まで社長
――創業社長の三郎氏から、どのように事業承継が成されたのですか?
創業した祖父が81歳のときに、専務取締役だった父が64歳で代表を引き継ぎました。2011年に父が亡くなり、化学系の会社に勤めていた兄が60歳で会社を継ぐことになりました。父は90歳まで現職社長でした。
――「会社を継げ」と言われたことはなかったのですか?
ないですね。父は「兄か私のどちらかが継げばいい」と構えていたのか、もしかすると「自分の代で終わり」と考えていたのか…。私は、新卒で家業と関係のない会社に就職し、その後、50代までソフトバンクなどで勤めていました。
ただ、うちは小さな規模のファミリービジネスで、祖父が89歳まで会長、父が90歳まで現役社長を務めている姿を見てきましたから、「いつかは自分も、何かしらの形で家業に関与しなければならない」と考えていました。
――啓芳堂製薬に入社したときの気持ちは?
2018年に売り上げが伸び悩んでいるとき、役員たちの要請を受けて入社しました。非常にニッチな商品である「ミクロゲン・パスタ」は、ドラッグストアや薬局の「第一類医薬品」の棚の端っこのほうにちょこんと置かれるような商品ですが、このように定番商品として何十年も置かれる商品はなかなかないんです。それは、長く愛してくれているファンがいることの証左です。商品を提供しつづける責任を持たなければならないと思いました。
ソフトバンク出身、歴史あるパッケージを
――入社2年後の2020年、代表取締役社長になり、事業を承継したそうですね。
兄が代表取締役会長に、私が代表取締役社長に就任しました。折しもコロナショックというタイミングで、インバウンド需要が激減しました。海外でも珍しい薬なので、それまではとくに中国や韓国の方が買われていた。一方、祖父の時代に展開した広告戦略の影響で、国内の需要は高齢化する一方です。あらためて「ミクロゲン・パスタ」という商品の市場性がどのくらいあるかを試す意味もあり、2023年にパッケージリニューアルを行いました。大企業から見れば小さなリニューアルかもしれませんが、うちのような小さな会社で、70年近くほぼ変えていなかったデザインを変えるというのは、けっこう大変なことでした。
また、2023年からはInstagramやXなどのSNS運用も開始し、デジタルの広告に本格的に乗り出しました。すると、購買層に50代女性が増え、20~30代も見られるようになりました。
――パッケージデザインや広告戦略の変更など、かなりの変革をしたのですね。
私は、啓芳堂製薬に入社する前はソフトバンクに在籍していて、ベンチャー企業だったソフトバンクが現在の通信会社へ転換するイノベーションのダイナミズムを体験してきたせいか、そうしたチャレンジには抵抗がありませんでした。変えなければ次に繋がらない、そんな意識が明確にありました。
一方、新卒で入社したヤマタネは物流と食品流通の中堅企業です。ソフトバンクとは対照的に、「続く」を支えるという理念をもつ堅実な会社ですが、今年で創業100周年を迎え、時代や外部環境の変化に合わせた事業展開や社内の活性化を進めています。私は2022年からヤマタネの執行役員として二度目の入社をして、昨年からデジタル推進本部本部長としてヤマタネグループのDXの推進を担当としています。ここでも「チャレンジする」ことのお手伝いを始めています。
――ヤマタネやソフトバンクでの経験から得たことは?
啓芳堂製薬のような小さな会社、ソフトバンクのような大きな会社、ヤマタネはその中間くらいの規模です。それぞれ規模は異なりますが、経営のポイントというか勘所は、相似形で形成されているような気がします。
たとえば、「この中規模の会社でやってきたことが、この小さな会社で生きる」「この小さな規模の会社でやってきたことが、この大企業のこの部分でも同じだ」といったように。最近はそのことをすごく感じていますね。
中島健雄氏プロフィール
中島健雄(なかじま・たけお)
1962年生まれ。大学を卒業後、1985年に株式会社山種産業(現・株式会社ヤマタネ)に入社。物流システムの開発やインターネットコンテンツ事業の新規立ち上げに携わる。2000年に同社を退社後、ソフトバンク・ブロードメディア株式会社(現・ブロードメディア株式会社)、ソフトバンクBB株式会社(現・ソフトバンク株式会社)を経て、2018年に祖父が創業した啓芳堂製薬株式会社に入社し、2020年に代表取締役社長に就任。現在、株式会社CAWAZ取締役、株式会社ヤマタネ執行役員 デジタル推進本部本部長、一般社団法人SDGsデジタル社会推進機構監事などを兼任。
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