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カリスマ創業者が65年間率いた紙メーカー 「イエスマン」ばかりの社風を変えた孫の事業承継/市瀬豊和インタビュー

65年間、豪腕のワンマン創業者が君臨した会社は、組織風土が硬直化していた。創業者のカリスマ性が故に、「イエスマン」しか育たず、21世紀になってもデジタル化に大きく乗り遅れていた。創業92年の紙製品メーカー「山櫻」。ペーパーレスの時代に「斜陽産業」とも思える企業を、創業者の孫にあたる現社長が継いだのは19年前のこと。その後、会社にチャレンジできる社風を根付かせ、社会的課題に配慮したエシカル製品「ワンプラネット・ペーパー、通称バナナペーパー」などの新機軸も打ち出し、社員を100人以上増やした。どのような事業承継があったのか、市瀬豊和社長に聞いた。

山櫻…1931年に「市瀬商店」として、市瀬邦一氏が26歳で創業した。名刺やはがき、封筒などの紙製品の製造・販売を手がける。邦一氏は、1997年に91歳で亡くなるまで社長を務めた。その後、邦一氏の次女の夫が2代目社長となり、2004年から市瀬豊和氏が代表取締役社長。年商119億円(2023年2月期)、社員数は507人。本社は東京都中央区。

戦争帰りのカリスマ創業者、91歳まで社長

――創業者の祖父・邦一氏は相当なカリスマだと。どんな方だったのですか。

市瀬 創業者って、会社が自分の体の一部なんですね。2代目3代目とは大きく違って、なかなか譲れないから、亡くなるまで社長を続けていました。
 
周りの社員は相当大変だったと聞いてます。呼びつけられて、1時間半立たされて貧血になる社員もいたそうです。

とはいえ、人格は非常に真面目。戦争に行って弾が2発貫通して死にかけた人間ですから。恐怖政治というよりは、社員が創業者のカリスマ性に付いていく社風だったのでしょう。

――祖父の邦一氏は、経営手腕も秀でていたのですか。

市瀬 紙製品の業態は、高度経済成長を経ても大きく変わらなかったんです。昭和50年代、オイルショック後は倍々ゲームに数字が伸びたって言ってました。そういう意味では、91歳の社長でも何とか回せたのかな。もちろん、右腕左腕の番頭さんがいて、サポートしてきたからこそですけど。 

ピークの売り上げは140億、私が社長になって、1年目か2年目くらいのことです。

銀行勤め、知らないうちに祖父が「辞めさせる」

――市瀬社長が、事業承継を決めたのはいつのことでしょうか。

市瀬 祖父は娘が2人おり、私の父と叔父は養子縁組でした。父と叔父とも2人ずつ子がおり、祖父からすると私も含め孫が4人いました。 

幼稚園か小学校低学年の頃ですけど、お年玉をもらうときに4人呼ばれて正座させられて、「お前たちは大きくなったら山櫻を手伝いなさい」って。ある意味洗脳されてきましたね。 

小学6年の作文には、「祖父の会社を手伝う決心」って題名で作文を書いているので、既に意識をしていたわけです。

――大学卒業後、山櫻にすぐ入られたのでしょうか。

市瀬 小学5年からずっとラグビーをやってたんです。その間は、ほぼ会社のことは忘れて、慶応大でラグビーのみに打ち込んでいまして。日本代表に手がかかるところまで行きました。

就職活動で、サントリーと第一勧業銀行(現・みずほ銀行)に誘われました。ラグビーでサントリーに行く選択肢もあったけど、将来の会社経営を考え、山櫻のメインバンクの第一勧銀に入りました。

――その後、山櫻に入られた経緯は

市瀬 海外を知りたくて留学を目指していたのですがね。祖父が、私の知らないうちに第一勧銀に来て、「そろそろ孫を辞めさせる」って言っちゃったんですよね。銀行内で大騒ぎになりました。 

また、第一勧銀にいた時に結婚を決めていたので、やめる前に、英語の勉強と社会勉強と新婚旅行等を兼ねて、夫婦でニューヨークに1年間行きました。

そして、29歳で山櫻に入りました。まだ、祖父が80代で社長をしていましたね。

「化石か!」 平成の世にIT化ゼロ

――入社した頃の社風は、どうでしたか。

市瀬 とにかく社長が怖いので、みんな社長にひれ伏すというか、触らぬ神に祟りなしというか。社長に怒られないように仕事をする、ある意味真面目な社員が大半でした。それ故に、チャレンジしづらい環境、組織でした。

ファミリー企業ってだいたいそうですが、創業者の社長に逆らって、社長の意見を変えてまでチャレンジするってなかなか難しいですね。

――社風以外に衝撃を受けた点がありましたか。

市瀬 入社後、工場で半年研修した後、挨拶回りをしたり、営業をしたりして、山櫻の業務全体を学んだんです。そこで、「この会社はまずいな」と思ったのは、もちろんワンマン社長のこともあるんですけど、もう一つIT化が全くされていなかったんです。 

1990年代前半ですが、当たり前に経理や給与計算、在庫管理は、電子化されている時代でした。でも、うちの会社はほぼゼロだったんですよ。 

給与計算は、社員2人ぐらいが、部屋にこもって現金を集めて、それで配ったりしてたんです。そういう時代です。商品も3千点ぐらいあるんですけど、在庫管理は全部帳簿ですから。足し算引き算してね。これを見たときは、本当に「化石か!」って。そこが一番ショックでした。

だから、営業時代から、社内全体のIT化を進めたのが一番の仕事でした。会社全体のお金や商品の流れが全部理解できますから。その意味では、社長になるときに非常にためになったと思います。 

――1997年に、祖父の邦一氏が亡くなられ、叔父さんが2代目として社長を継がれました。

市瀬 祖父が亡くなり、叔父が社長になったんですね。ただ、社員の感覚からいうと、正直あまり変わっていなかったと思います。何となく、オーナーに逆らったら辞めさせられてしまうんじゃないかとか、異動させられてしまうんじゃないかとか。

実際にそういう噂もありましたし、人間って弱い生き物ですから「触らぬ神に祟り無し」という風土は変わりませんでした。その考え方の改革が一番ですね。今でも僕としては大変です。

――社長になる前から、社風変革に取り組まれていた。

市瀬 他の人は、なかなか難しいですよね。言われたことをやってくれば良かった社風ですから。同族企業にありがちな話だと思います。私は、このままだったら会社の未来はないっていう気持ちで仕事してました。 

IT化ともう一つ、やっぱり紙製品だけではまずいなと。Macとか出てきて、今までは印刷機で名刺を作っていたのに、パソコンとプリンターで名刺を作る時代が来た。印刷業界やばいなと。

それで、ある会社をM&Aしたんですけど。まだ、祖父は存命で、喧嘩をしながらもお金を出してもらった。祖父からするとM&A自体、あまり認識がないんですよ。だから、そんな『空』なものに金出してどうすんだって怒られて、祖父とは2回ほどやり合ったんです。

祖父はケンカすると、目の色が変わるんですよ。「お前は若造のくせに、屁理屈こねやがって」みたいに、グレーに変わるんですよ。目の色が(笑)。

社長は41歳、年上役員に気を遣いつつ

――社長に就任したいきさつを教えてください。

市瀬 41歳、入社して12年目ですね。まだ若かったですが、会社の風土やデジタルの遅れも含め、このままだと本当にまずいなという状況でした。叔父と父親に、もし僕に譲る前提があるならば、なるべく早くとお願いしました。役員も早い方が良いという合意もありました。

――他に兄弟やいとこがいる中、スムーズに決まったのでしょうか。

市瀬 それは非常に簡単で、直系長男。直系の男1号だからですよね。長女の長男ですから。後から聞いた話では、祖父は自分がもうちょっと頑張って、直接孫に譲りたかったと言っていたそうです。 

――カリスマ創業者の作った風土が残る会社で、社長に就任する時、最も意識したこと、神経を使ったことは何でしょうか。 

市瀬 やはり、私が社長になった時、私の親の年代の役員ばかりでしたから、役員会も平均年齢70歳。言葉を選びながら、父親の年齢のような役員を説得して会社を変えていくので、すごく神経を使ったし、体力を消耗しました。言葉もタイミングも選ぶ感じですね。

一方で、社長に物を申せないっていう伝統はなんとかしないといけない。直接私に何か言って反対する人は、そういない。でも、私は社長に物を申してこれ違うって言ってくれる人を信じるようにしました。

――組織風土を変えるために、具体的に心がけたことは何ですか。 

市瀬 一番は、会議で自分が喋るのをなるべくやめました。喋らせる方に、時間を作りましたね。最初のうちは私も体育会系で、怒ったりしていたんですけど。でも、「これをやると元の木阿弥だ」と思い直して、胃がキリキリしながらも、聞く時間を増やしました。社員が会議で発言しないのなら、本当に普段、自分の仕事のことを考えているのか疑問ですよね。

社長になって20年近く経ち、部長職は全員年下になりました。だいぶ社内風土は変化したんじゃないでしょうか。

トップダウンでデジタル化、やめていくベテラン社員も

――IT化、デジタル化にも取り組まれ、社員の反応はどうでしたか。 

市瀬 デジタル化は、やっぱりトップダウンでないとできないんです。資金もかかるし、事務作業など業務のやり方も変えないといけない。そして、無駄な作業を切ってやめさせる。「辞める人がいてもいいからやろう」と言って進めました。 

例えば、手書きの商品加工伝票がありまして、5枚ぐらいのカーボン複写式だったんですね。それを、1枚ずつ社内の各セクションに紙で持っていく。もう一切それやめようって言って、社長になって2、3年目にトップダウンでやりました。

新システム導入に伴い、パソコンを全営業や手配業務担当者に持たせました。ベテラン社員には、結構反発して、やめた人もいましたね。一方で、そのあたりで新しい社長は、やることが違うと感じてくれたと思います。

――承継に当たって、山櫻には株式の問題はありましたか。 

市瀬 同族企業だから当然ですが、創業者夫妻が大半、あとは私の母や叔母がメインで、残りは私の父親も叔父も持ってました。だから、株の所有を巡る問題はなかったですね。 

大変だったのは、祖母と祖父が同じ年に亡くなったことです。株の移転や相続が一気に起きました。祖父母は、すごく真面目な経営者で、資金は全て経営につぎ込み、必要な工場や自社ビルに投資していました。

だから、株価だけが上がって預金が少なく、不動産も自宅だけ。相続に関する資金繰りは大変でしたね。父や叔父、僕らも払える額ではないので、会社との借金などいろんなことで乗り切ってきました。

――事業承継後、事業の方向性はどのように変わりましたか。

市瀬 名刺や封筒、はがきなど紙製品だけを売っていても、これは限界が来るなと。そこで、創業80周年の2011年、東日本大震災の年に会社の企業ドメインを変えました。これまでは、紙製品の総合メーカーだと表現していましたが、「出逢ふをカタチにする会社」ということで、人と人、人と企業、企業と企業の出会いをお手伝いする紙製品、あるいは周辺サービスを提供する会社としました。 

たとえば、名刺は元々、印刷会社を通してユーザーに販売する流れでしたが、WEBを活用し直接名刺を受注するサービスを始めました。すると、ユーザーからの問い合わせが殺到して、名刺のウェブ受注がどんどん増えたんです。

でも、印刷業界向けの営業部門からすると、自分の顧客の仕事を取ったという軋轢が発生します。新規の名刺受注事業は、3人ほどでスタートしましたが、営業は150人ぐらいいますから、社内ですごいクレームになる。そこはなかなかワンチームになれなかったです。

――そのアイデアは、社風が変わってボトムアップで生まれたのでしょうか。

市瀬 基本は私ですが、さっき話したM&Aした会社の社員が中心になったのです。元々、オーナー企業出身じゃないので、チャレンジャー精神がある彼らに託して進めることができました。外から来た人たちが頑張って、チャレンジできる社風が具現化しましたね。

売り上げ200倍、バナナペーパーが貧困を救う

――環境や貧困などの社会的課題に配慮した「エシカル製品」という新機軸も打ち出しています。

市瀬 1990年代、日本経済がすごく発展したときに、大量の紙を使うわけですよね。紙は森林を伐採するから、環境に悪いとしてかなり叩かれました。そのあたりから、名刺に古紙を使うなどの動きが拡大してきました。 

その後、本気で環境に対して取り組みたいと考えるようになり、2012年に、「バナナペーパー」の事業を開始しました。アフリカ・ザンビアの田舎の貧しい村で、バナナの茎から繊維を取り出し、紙にします。村には、電気やガス、水道、水洗トイレもなく、子どもたちは学校に行けていない。親も密猟などに手を染める。環境に貢献するだけでなく、その村に雇用を生みだします。

今、そこの村の雇用者は25人ですが、家族も含めて約250名の生活を向上させました。子どもたちは学校に行けるようになり、マラリア対策で蚊帳を購入し、死亡率を下げました。

バナナペーパーは11年目にして、売り上げは1年目の約200倍になりました。本当にここ3、4年ぐらいでぐっときた感じがあります。

――グローバルな視点で社会貢献をすることには、現場の社員からもかなり次元の違う驚きがあったのではないでしょうか。

市瀬 バナナペーパーをスタートしたときには、多分相当異次元だったと思います。何を始めたんだろうみたいな。でも、お客さんの評価や問い合わせも増え、メディアの取材や講演の機会も増えました。

こうした評価が外から聞こえてくるようになると、社員も収益だけじゃない仕事や社会貢献、そして自身の成長の重要性に気づき、次のチャレンジへの好循環が生まれます。

――市瀬社長からの次世代への事業承継が将来に控えていますが、ビジョンはありますか。

市瀬 社長になった瞬間から、どうやって誰に引き継ぐかという、30年後を見据えて経営しています。引退するためにどう会社を作り上げるか、商売を作り上げるか、組織を作り上げるか。未来が明るい会社を渡してあげないと、受ける側がかわいそうですよね。

今、なかなか中小企業の事業継承が難しくなってきています。でも、企業経営が面白いか面白くないか、未来があるかないかというのは、受ける側のモチベーションもあります。大変な時代であることは間違いないですよ。これだけ変化が激しい今、このコロナによってこの変化のスピードがさらに加速しましたから。受ける側の根本に、会社を良くしたいというエネルギーは必要ですね。

次、誰に引き継ぐかは決めていません。ただ、企業や組織のリーダーは70歳で引退した方がいいと思っています。持論ですが、70歳を超えるとだんだん子どもっぽくなってきますから(笑)。

譲る側としては、口を出さないことでしょうか。私が社長になった時、前社長は叔父ですけど、ほとんど口を出さないでいてくれた。後進に全部任せるという覚悟は重要かもしれないですね。

記事本編とは異なる特別インタビュー動画をご覧いただけます

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株式会社山櫻 代表取締役社長 市瀬 豊和

株式会社トータル保険サービス 社外取締役、一般社団法人エシカル協会 監事、慶應義塾體育會蹴球部 黒黄会(OB会)理事長、一般社団法人静岡県ラグビーフットボール協会 理事 10歳から社会人まで17年間にわたりラグビーボールを追いかけ、高校日本代表、関東代表、日本選抜にも選出される。 山櫻では『すべての出逢いを未来の豊かさへつなぐため、いまを大切に輝き続ける企業を目指します』という企業理念を掲げ、名刺や封筒などを始めとした製品やサービスを通して、人と人、人と企業、企業と企業の出逢いをつなぐ事業を展開しています。

賢者の選択サクセッション編集長  前田 雄大

株式会社矢動丸プロジェクト 代表取締役。企業ブランディングの支援、ビジネス番組「賢者の選択」のプロデューサー、経営者コミュニティーの運営などに取り組む。自ら事業承継する中で、社会課題である事業承継問題と向き合うべく「メディア」と「経営者コミュニティ」を有する事業創継プラットフォーム「賢者の選択サクセッション」を立ち上げる。「メディア」で事例を紐解きノウハウを形式知化、「経営者コミュニティ」で知見を共有しソリューション提供を実施する事で、経営者の方々と共に課題解決に取り組み、日本の事業承継問題解決を目指す。

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