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「なぜ情報を出してるんだ、馬鹿者~!」父に殴られ、3度は眼鏡を壊した 「眼鏡のまち」でV字回復の地元企業、IT出身の息子のネット情報戦略

「眼鏡のまち」福井県鯖江市で、たたむと厚さ2ミリの眼鏡「ペーパーグラス」を開発し、業績をV字回復させた企業がある。2003年にIT企業から家業に戻り、眼鏡部品を製造する実家の町工場を他業界に進出させようと考えた西村昭宏氏。当時、中小企業ではまだ珍しかった会社のホームページで、会社が持つ設備を公開して他業界に加工技術をアピールし、顧客獲得に乗り出した。しかし、これに激怒したのは、当時社長を務めていた父・忠憲氏だった。激しい親子の対立、その行方は−−。

ネット発信巡り、親子の対立

──以前の西村金属は売上げが眼鏡100%でしたが、西村さんは多角経営に乗り出しました。当時、製造業で多様な業界の製品を作るのは珍しかったのではないですか。

そうですね。製造業がインターネットで顧客と商取引するのは難しいと言われていた時代でした。一度も会ったことないお客様と、インターネットの情報発信だけで仕事が繋がるわけないと。

20年前ですから、誰もそんなことをやっていないときに、「こんな商品があります」ではなく、「我々はこういうことができます。こういう技術があります」というホームページを作りました。

やっぱり、まずは自分たちに何ができるのかという情報発信をしないと、新しい顧客から「こういうことできない?」などの相談を得ることはできないと思いました。

──周りの反応はいかがでしたか

父は大反対でした。許してもらえないので、ホームページに会社の情報を勝手に出しました。もう知らんと思って(笑)。

父親がたまにホームページを見るんです。すると父親が飛んできて、「お前、何この情報を出してんだ、馬鹿者〜!」って怒って、パーンと殴られました。

もう3本ぐらい眼鏡を壊しています。会社にある設備とか技術の情報をホームページ上で発信するなど、父親にとっては考えられないわけです。

──そのとき西村さんはどう対応されたんですか?

いや、負けなかったですね。新規の顧客を獲得しないと未来は切り開けないと思っていましたので、父親とぶつかろうが喧嘩しようが。やっぱり親子なので、次の日にはケロッと普通に喋っていたりしました。

見て盗まれるノウハウは本当のノウハウじゃない

──技術の会社が工程などを外部に公表することは、競争力の原泉をバラすことにもなります。この点はどのようにお考えでしょうか。

僕は、父親に「見て盗まれるノウハウはノウハウじゃない」と言っていました。製造業において、チタン加工は非常に難しいですけども、1個2個という単位なら加工ができるわけです。

だけど、チタンの難しいところは、量産加工で同じ品質の製品を作るのが最も困難な点です。難点をどうクリアするか、どういったノウハウが必要かというのは、実は目に見えないところに隠されています。だから自信を持って情報発信していました。

当時、日本国内の様々なメーカーが、中国製の安価な商品に対抗するため、より付加価値の高い商品開発を模索していた時代でした。情報発信の結果、チタン加工技術を使って付加価値の高い商品開発をしたいメーカーが日本中にあることを初めて知りました。

──ホームページで、どのような問い合わせが来るようになりましたか。

具体的にはちょっと言えないんです(笑)。ただ、西村金属の技術で世に出た商品っていうのはいっぱいあります。

そして、顧客がどんどん新しく変わっていき、売り上げ全体の約8割が眼鏡以外になり、眼鏡業界依存体質から脱却しました。

もし眼鏡だけにこだわっていたら、本当に会社がなくなっていたかもしれません。

ペーパーグラスは、父の夢の結晶でもあった

──「第3創業」のペーパーグラスは、どのような経緯で開発したのでしょうか。

眼鏡業界の依存体質からの脱却を実現しましたが、下請け体質は変わりませんでした。そして、2009年頃、リーマン・ショックが起きます。

さまざまな業界の仕事をして経営は安定化に向かいましたが、やはり世界的な景気に左右されるような事象が起きれば、やはり下請け体質では厳しいというのをリーマン・ショックで実感しました。

だから、下請け体質からの脱却をしていくため、下請けからメーカーとなり、コストコントロールができる仕事を社内に持つことで、安定した経営体質を作ろうとしたのが、開発のきっかけです。

実はこの大ヒット商品は、父が温め続けていたアイデアの結晶でもあったんです。

──お父様の夢だったのですか。

父親の夢は「やっぱり完成品メーカーになりたい、そして世界に行きたい」でした。2003年頃に私が戻ってきたとき、父が自社商品の開発に取り組んでいました。ペーパーグラスの原型です。

当時は「しおり」の商品名で、たたむとしおりのようになるというコンセプトでした。ペーパーグラスと違うのは、売ることは外部に任せてしまった点です。結果、1回きりの注文で終わってしまった。

そのときに感じたのは、これはすごい商品だと。「なんでこんな良いものが世の中に伝わらないんだろう」と思っていました。この商品がもつ価値、可能性、世界観が、全く世の中に伝わってなかった。その当時から、ゆくゆくは絶対に「薄い眼鏡」で乗り出してやろうという思いを腹に抱えてきました。

──父親と喧嘩しながらも、その父親のアイデアをうまくマーケティングして世に出すということを考えていたのですか。

2009年頃はSNSが普及し始め、従来は検索型でしか届けられなかった情報が、SNSを活用してプッシュ型で届けることができるようになってきました。どんな小さなメーカーでも、直接お客様に世界観と商品を届ける時代に変わったのです。

──2012年にペーパーグラスが再販されます。お父様にはどのように伝えたのですか?

いや、何も言っていないです(笑)。

──そのときに西村さんが現在代表取締役を務める「西村プレシジョン」を別会社として始めたのですか。

実は、西村プレシジョンは父がもともと用意していた会社です。西村金属のつくる部品を中国に輸出することを目的につくった会社で、父はゆくゆくは西村金属を私の兄が継ぎ、私は西村プレシジョンで西村金属の部品を世界に輸出する役目をやってほしいと勝手に思っていました。

大事なのは「続ける」こと

──今後の目標を聞かせてください。

ペーパーグラスの事業を始めた当初から、地元に愛される、鯖江に愛される、そして日本に愛される世界ブランドを目指すという思いで活動してきました。いま、日本の玄関口・羽田で、本当に多くの海外のお客様に喜んでもらっています。どんどん国内外問わず、ペーパーグラスを手にする喜びと感動を世界中に届けたいと思っています。

──これから鯖江発で、今までなかった老眼鏡のペーパーグラスが世界的ブランドになれば、また鯖江が元気になりますね。

鯖江は眼鏡で有名ですが、「どのブランドが好き?」と問われたときに誰も答えられないそうです。

だから、「鯖江のペーパーグラス」や、「鯖江の何々」というブランドがどんどん育っていってほしいですし、鯖江の未来をつくっていく一翼になれたらいいと思っています。

──改めて、事業承継の一番大事だと感じる部分について教えてください

大事なことは続けること。事業承継とか、新規事業って誰でもできると思います。もちろん、その時代に合わせて変わる必要がありますが、大事なことは粘り強く続けることです。

【株式会社 西村プレシジョン 会社案内

1993年に株式会社西村金属の貿易部門として設立。眼鏡や眼鏡部品の企画製造、仕入れおよび販売、精密機械部品の仕入れおよび販売などを行う。2000年代に地場産業の眼鏡関連が縮小するなか、インターネットでいち早く眼鏡以外の分野に活路を開き、業績を回復。2013年から薄さ2mmの携帯老眼鏡「ペーパーグラス」の販売を開始し、累計売上げ10万本を突破する大ヒット商品を生み出す。現在、西村昭宏氏が代表取締役を務める。

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賢者の選択 サクセッション編集部

賢者の選択サクセッションでは、⽇本経済の課題解決と発展のためには、ベンチャー企業の育成と併せて、これまでの⽇本の成⻑を⽀えてきた成熟企業∕中堅‧中⼩企業における事業承継をフックとした経営資源の再構築が必要であると考えています。 ビジネスを創り継ぐ「事業創継」という新しいコンセプトを提唱し、社会課題である事業承継問題に真摯に向き合うことで、様々な事業承継のケースを発信しています。 絶対解の存在しない事業承継において、受け継いだ経営者が事業を伸ばす きっかけとなる知⾒を集約していきます。

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