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「お前、親父さんの仕事を見ているか」飲み屋でかけられた言葉 関東から北海道に戻り、「帰りたくなるイエ」を作る家業を継いだ3代目

北海道で、家族の暮らす場所を「帰りたくなるイエ」にすることを目指し、住宅建設などに向き合う神馬建設(北海道浦河町)。3代目の神馬充匡氏(47)は、北海道の高専を卒業後、関東地方の土木業界で活躍していた。しかし、飲み屋で出会った先代・父の顧客が漏らした一言をきっかけに、北海道に戻ることを決めた。その後、2代目社長の急逝を乗りこえ、北海道の地方都市でどのような「イエ」づくりを展開しているのか。神馬社長に聞いた。

北海道を離れるも、公共事業に疑問を抱き始めた20代

−−−−神馬建設に入社するまでの経歴を教えてください。

小さな頃からものづくりが好きでした。中学校までは北海道浦河町に住んでいましたが、地元から離れたい気持ちが強く、中学校卒業後は苫小牧市にある土木科のある高専に進学しました。

当時は土木と建築の違いがよくわからないまま進学しました。でも、1年ほど学んで、土木と建築が違う点や、自分は建築がやりたかったことに気づきました。ただ、土木の面白さも感じていたので、卒業後は苫小牧市の土木会社に就職しました。

土木の仕事は、共同で一つのものに取り組み、完成させる喜びがあります。でも、北海道は下水道や橋のベース部分の案件が多く、現場が山だと完成しても見えません。それで、入社2年目に千葉県の部署への異動を希望しました。

千葉は、地上から見える公共事業が多く、仕事が楽しかったですね。関東近辺で10年ほど仕事をしていました。

当社は私が3代目ですが、若いころは敷かれたレールに乗るのが嫌で、家業を継ぐ意識はなく、父も「自分の人生だから好きにすれ」が口癖でした。私の意思を尊重してくれていましたね。

−−−−では、なぜ神馬建設に入社することになったのでしょうか?

税金を使う公共事業は、設計などを含め、ほとんど上が決めたことをそのまま請け負います。私は、多くの人のためになると思って仕事をしていたのですが、実際は現場周辺の住人たちから辛辣な意見や苦情を受けることも多々ありました。

あるとき、現場視察に来た官公庁の幹部が、ぽつりと「なんでこの場所にこんなのを作るんだろうね」って言ったんです。我々は工事に関する決定権がありません。「それを決めたのはあなたたちですよね?」と思わず言いたくなりました。

そんなことが積み重なり、仕事に疑問が多くなった29歳のとき、長期休みで実家に帰り、地元の飲み屋で飲んでいました。そこでカウンターに座っていたおじさんから、「神馬の息子さんだな。俺はお前の親父さんに『こういう家が欲しい』って言ったら、それ以上のすごい家を建ててもらったんだ。お前、親父さんの仕事を見てるか?」って言われたんですよ。

その言葉で我に返り、自分が本当にやりたいことは「喜ぶお客さんの顔が見える仕事だ」と気がつきました。土木を辞めて建築をやろうと決め、父に帰ることを伝えると、「そうか」くらいの反応でしたが、内心は嬉しかったのではないでしょうか。

顧客が求めている以上のものを提供する難しさ

−−−−建築の仕事をするうえで土木との違いや戸惑い、気づきはありましたか?

最初の3年はベテランの大工たちと一緒にずっと現場、5年目から現場管理、その後に顧客との折衝を覚えていきました。気づいたのは、父のように顧客が求めている以上のものを提供することの難しさです。

例えば、「お風呂を直したい」と言われたとき、単純に浴槽を取り替えればいいのかというと違います。高齢夫婦なら段差をなるべく無くし、掃除を含めて使い勝手を良くする提案をする必要があります。小さめの浴槽で内側に腰掛けがあるタイプのものが使いやすく、使用する水の量やお湯を沸かすためのエネルギーも減ります。

でも、お客さんが発注するときは「お風呂を直したい」という表層的なことしか言いません。言語化されていないリクエストを先回りして聞き出さないと、求めている以上のものを提供することはできません。土木時代は、顧客と直接接することがほとんどなかったので、失敗を重ねて得た建築の気づきです。

ちなみに、当社は家族が暮らす場所を「家=住居」ではなく、「イエ(home=帰る場所) 」と定義しています。ライフスタイルに合わせて豊かに暮らすイエ、帰りたくなるイエであってほしいという願いで定義しました。

ほぼアナログ思考の会社を「組織化」するために

−−−入社後、組織化とデジタル化を推進したとお聞きしています。

私が入社した当時、会社にはマネジメントの概念がほぼなく、職人から経営まですべてをこなす先代社長の父によるトップダウン方式でした。経営面だけでなく、働いている職人さんたちもほぼアナログ思考でしたので、デジタル化していかないと存続は厳しいと感じました。

ただ、土木出身で職人ではない私が、父のようなオールマイティーな社長にはなれません。ベテラン職人も父だからついてきてくれたはずで、私が引っぱっていけるかと考えたとき、会社の組織化が必要だと思いました。

トップダウン方式をやめ、例えば現場仕事を一つの組織として任せるスタイルを目指しました。実現のため、長くフリーで現場監督を経験した1つ年上の先輩をスカウトし、私と同時に入社してもらいました。現在、当社の部長となった彼と私で、少しずつ組織化を推進し、マネジメントの概念を取り入れていきました。

とはいえ、父が度々現場に現れては仕事を指揮しようとするのを止めさせたり、昔気質で高齢の職人さんにデジタル化で苦労をかけたりと、いろいろ難しさもありました。

ただ、私を子どものころから知っている従業員が多くいましたので、新しい取り組みにも協力的で、温かく迎え入れてもらえたと感謝してます。

−−−−事業承継の準備をしていたところで先代が急逝されました。

父は間質性肺炎という持病を抱えていました。私は入社から5年が経過し、62歳となった父にはあと3年で引退してもらうつもりでした。

その3年間を準備期間として事業承継や経営について学んでいたとき、父は65歳で亡くなってしまいました。今思うと、現場から経営までこなした父のすごさを実感しますし、もっといろいろと聞いておきたかったこともあります。

■プロフィール

神馬建設 神馬充匡氏

1977年6月5日、北海道浦河町生まれ。苫小牧工業高等専門学校・土木課を卒業後、

1998年に岩倉建設入社。関東で土木現場の監督などを10年間務め、2010年に神馬建設に入社。父の逝去を受けて、2018年に代表取締役に就任。ニーズに合った「イエ」づくりなどの民間事業と公共事業の両方に対応しながら地域のインフラを支え、過疎化が進む浦河町および周辺エリアの地域活性化など幅広く活動する。

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賢者の選択 サクセッション編集部

賢者の選択サクセッションでは、⽇本経済の課題解決と発展のためには、ベンチャー企業の育成と併せて、これまでの⽇本の成⻑を⽀えてきた成熟企業∕中堅‧中⼩企業における事業承継をフックとした経営資源の再構築が必要であると考えています。 ビジネスを創り継ぐ「事業創継」という新しいコンセプトを提唱し、社会課題である事業承継問題に真摯に向き合うことで、様々な事業承継のケースを発信しています。 絶対解の存在しない事業承継において、受け継いだ経営者が事業を伸ばす きっかけとなる知⾒を集約していきます。

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