COLUMNコラム
「家の名前に泥を塗れない」小5で意識した、刃物の聖地を継ぐ未来 老舗メーカーに息づく「野鍛冶」の精神
岐阜県・関市は、ドイツのゾーリンゲン、イギリスのシェフィールドと並んで「刃物のまち」と称され、世界に名を馳せている。刃物メーカー「貝印」(東京都千代田区)は、関市で創業し、100年以上にわたってカミソリや包丁・ナイフなどを製造・販売してきた。2021年5月に4代目社長に、36歳の若さで遠藤浩彰氏が就任した。創業家の長男として生まれた遠藤氏がどのように事業を引き継いだのか、どんな思いがあったのか――知られざる道のりを聞いた。
目次
“野鍛冶”の精神を掲げて116年続く刃物メーカー
――貝印の歴史について教えてください。
遠藤 貝印は、岐阜県の関市で1908年に創業しました。関市は、鎌倉時代から数多くの有名な刀匠を輩出し、日本刀作りで栄えた町です。
しかし、武士の世だった戦国から江戸、明治時代へと遷り変わっていくなかで、刀鍛冶たちは包丁や農具などの身の回りの刃物を作る「野鍛冶」へと転身していきました。
そんな“刃物のまち”で、私の曾祖父・遠藤斉治朗がポケットナイフの製造から事業をスタートさせたのが、貝印の始まりです。
1932年、当時は輸入品が主流だったカミソリの替刃に着目し、初めて国産の安全カミソリの替刃製造を開始しました。1945年には、私の祖父である2代目・遠藤斉治朗が後を継ぎ、カミソリに加え、包丁やハサミ、爪切りなどあらゆる刃物の製造へと事業を拡大していきます。
1977年に海外法人を設立し、1984年に医療分野に進出するなど、徐々に成長・発展してきました。今では、身だしなみを整えるもの、キッチン周りで使われるものを中心に、1万点を超える商品を扱っています。
――製品別の売り上げはどのようになっていますか?
遠藤 2023年の製品カテゴリ別の売上構成比は、包丁が25%と最も高く、カミソリが17%、スポーツナイフが16%、医療器が11%、ハサミ6%、爪切り5%と続いています。
――刃物作りでは、どんなことを心がけていますか?
遠藤 「野鍛冶」から始まった会社ですから、生活者のニーズに真摯に耳を傾けて刃物を作る「野鍛冶の精神」を掲げています。
商品開発の方針は、具体的には「DUPS3」という考え方です。デザイン性(Design)、独自性(Unique)に優れ、特許に値し(Patent)、安全(Safety)でストーリー(Story)があり、持続可能(Sustainability)である商品を具現化する――それぞれの頭文字を取った「DUPS3」を意識した新商品を提供する。私たちが常に心がけていることですね。
小学生高学年で芽生えた「後継者の自覚」
――36歳という若さで事業を承継していますが、経緯を教えてください。
遠藤 1989年に祖父が亡くなり、父が社長に就任しました。当時、幼稚園児だった私は、岐阜県関市から千葉県に引っ越しました。小学生低学年の頃は後継者という意識は持っておらず、自由に過ごしていたと思います。
それが、2つ上の姉が中学生になるタイミングで岐阜県に戻ることになり、小学校5年生からは再び関市での生活が始まりました。「後継者」というのを意識したのはその頃かもしれません。
関市は“刃物のまち”で、貝印は地元の大企業です。「貝印の長男」という周りの目は、どうしても意識してしまいます。プレッシャーというわけではありませんが、どこかで「家の名前に泥を塗るわけにはいかない」と感じていました。
父から明確に「会社を継げ」と言われたことは一度もなかったのですが、小学6年生から中学生になる頃には、「将来は自分が会社を継ぐんだ」という自覚が芽生えていたと思います。
――会社を継ぐことに対する抵抗感はなかったのですか?
遠藤 中学生になると、夏休みに倉庫でアルバイトをしたり、工場を見学したりと、会社に出入りする機会が増えていきました。自然と会社への愛着が湧き、「老舗メーカーの創業家に生まれた」という境遇を、「これはチャンスだ! 生かさない手はない」と捉えるようになっていったんです。
当時の貝印は海外展開を進めており、父は毎週のように海外出張をしていました。世界をまたにかけ、グローバルに活躍している姿を見て、「いつか自分も!」という思いが強かったですね。
◆新卒での貝印入社が「ベストだった」その理由とは
――中学生時代に「後継者」を志し、その後はどのように歩んだのですか?
遠藤 東京の高校に進学した頃には、父も私に会社を継ぐ意思があるというのを感じ取っていたようです。高校1年生の夏休みに、父のアメリカ出張に同行することになり、オレゴン州にある現地法人の幹部宅に数日間ホームステイしました。
当時2~3歳の息子さんがいたのですが、家族旅行に同行して、一緒にサンドバギーに乗った記憶があります。日本では味わえない、異文化の中での体験と交流は当時の私にとって大きな刺激になりました。さまざまな経験の中で、後継者への思いは一層強くなっていったと思います。もしかしたら、父の手のひらの上で転がされていたのかもしれませんが(笑)。
この間、オレゴン州の工場に行った際には、その息子さんが働いていたんです。親子2代にわたって、貝印で働いてくれているのが本当に嬉しかったです。
――慶應義塾大学を卒業後、すぐに貝印に入社されています。他の会社を経験するなどの選択肢はなかったのですか?
遠藤 もちろん、他社で修業という選択肢も考えていました。しかし、最終的に貝印の中で経験を積んでいくのがベストだと決断しました。
振り返ってみても、新卒で貝印に入社してよかったと思っています。社会人1年目という一番下の立場から、現場のリアルな声を耳にすることができ、同期社員の話を聞くこともできました。
もしも他社での修業を経て、それなりの立場で入社していたら、社員からまた違う目で見られていたのではないでしょうか。新卒から貝印で働いているということが、社員の心理的なハードルを下げ、親しみを持って迎えてもらえていると思っています。
遠藤 浩彰氏プロフィール
貝印株式会社 代表取締役社長 兼 最高執行責任者(COO) 遠藤 浩彰氏
1985年6月、岐阜県関市で貝印株式会社の創業家の長男として生まれる。2008年に慶應義塾大学経済学部を卒業後、同社に入社。生産部門のカイインダストリーズ株式会社や海外関連会社kai U.S.A. ltd. への出向を経て、2014年に帰任する。国内営業本部、経営管理本部の副本部長を経て、経営戦略本部、マーケティング本部、研究開発本部の3部門で本部長を歴任。2018年に副社長に就任し、2021年5月より現職。
取材・文/庄子洋行
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