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「街のお肉屋さん」の和牛が世界31カ国で大ヒット!? 「敬語を使えなかった」若手の後継者、売り上げ100倍に躍進させる

京都で「街のお肉屋さん」として長く親しまれてきた食肉加工・販売企業「銀閣寺大西」(京都市左京区)。オリジナルブランドの「村沢牛」などで、京都ではよく知られた存在です。実は、2015年から和牛の輸出事業を始め、9年で31カ国に展開して世界各国で最高和牛ブランドを確立させています。海外事業を急成長させたのは、現社長の次女の夫で、「敬語が苦手だった」という34歳の次期社長でした。

下宿兼食堂としてスタートした

銀閣寺大西が販売する最高級の和牛

京都、大文字山の麓に本店を構える「銀閣寺大西」。もともとは、1930(昭和5)年に現社長の祖父・大西孫四郎氏が、北白川(左京区)で始めた「食堂兼下宿」でした。主に京都大学生相手の「まちの食堂」だったのでしょう。

戦後、洋食とすき焼きの店になり、1955年から精肉専門店として歩み始めます。現在は、1969年にオープンした本店のほか、京都や滋賀のスーパーなどに店舗を構え、京都市中心部では高級焼肉店「御肉処銀閣寺大にし」も運営しています。

京都市民にとっては、「街のお肉屋さん」として親しまれている銀閣寺大西ですが、実は食肉をメーンに多様な展開をしている企業です。京都市民にもあまり知られていませんが、地場スーパー「エムジー」の親会社でもあります。

2015年、銀閣寺大西は「和牛」の輸出をスタートさせました。現在は、イタリアやシンガポールなどに現地法人を立ち上げ、欧米やアジアを中心に計31カ国で「和牛」を販売するグローバルな展開を見せています。海外の売上げは、わずか6年で100倍になったという急成長ぶりです。

婿養子になって、名字も変えてほしい

大西英毅さん

海外事業の立役者は、17年に銀閣寺大西に入社した大西英毅常務取締役(34)です。大西雷三・現社長の次女の夫にあたる英毅氏は、一風変わった経歴の持ち主です。

日本に生まれたが、生後3ヶ月で移住したイギリスで15歳まで過ごし、同志社国際高校への入学と同時に日本に戻りました。日本語は不得手で、「あいうえお」から勉強するほどだったといいます。同志社大学進学後も「敬語が全然使えませんでした。語尾に『ね』をつければ敬語になると思っていました」と笑って振り返ります。

英毅氏は、同志社大1年生のときに現在の妻と出会い、「面白さ」に惹かれて2年生から交際を始めました。「お肉屋さんの娘さん」と知っていましたが、2人とも将来は海外移住を考えており、銀閣寺大西を継ぐつもりはなかったといいます。

英毅氏は、2011年にオリックスに就職します。堪能な英語を生かし、海外事業部でベトナムの投資会社やシンガポールのファンドなどに関わる国際的な活躍を見せていました。「全く食肉との関わりはありませんでした」といいます。

11年9月、英毅氏は妻にプロポーズします。しかし、ともに海外移住を考えていた妻の父・雷三社長から、思わぬことを言われました。「大西に入って、後を継いでほしい」。銀閣寺大西に入社し、しかも婿養子として「名字」を変えることも求められたのです。

迷って6年、いけると思った理由

「全くノーマークだったので、驚きました」。入社も結婚も迷いました。食肉産業の経験はまったくなく、「街のお肉屋さん」を「自分がやる意味があるのだろうか」としばらく悩んだそうです。

しかし、英毅氏は、ベトナムでファンド事業に関わっていたとき、日本の食品や日用品の人気が非常に高かったことを思い出します。当時、ベトナムの物価はラーメンが1杯200円程度。それでも、お菓子やインスタント食品をはじめとして、日本の食料品は高価でも売れることが印象に残っていました。

投資事業をしていた英毅氏は、独自に「和牛」のマーケットの可能性を調査します。すると、「これは、大手に負けずに行けるんじゃないかな」。勝機が見えました。

妻も、いつしか家業を守っていきたいという思いを強くしていました。そして14年、英毅氏は結婚して「大西」に名字を変え、17年に銀閣寺大西に入社します。

商社に頼らず、独自の物流システムを

当時の銀閣寺大西は、2015年に京都府の依頼で、シンガポールの展示会に出店したことを機に、小規模な輸出を続けていました。年間の海外売上げは1500万円ほどでした。英毅氏は、社長の後押しも得て、自身の強みを生かした海外展開を本格的に進めます。

英毅氏が勝機を見出したのは、物流の仕組みでした。日本の食肉業者は、輸出入のノウハウを持っておらず、大手商社を介して各国に輸出していました。当然、商社や卸業者への中間マージンが必要になります。

そこで、現地の物流システム自体を作ることにしました。「敬語」は苦手でも、英語は母語のようなもの。2019年にシンガポールに現地法人を立ち上げ、直接小売店やレストランにまで卸すシステムを作り上げ、価格面のアドバンテージを獲得しました。

コスト面だけではないメリットもありました。多くの業者を挟まないことで、「和牛」のブランド価値や「食べ方」という情報を消費者までダイレクトに伝えることができ、ブランドの確立にもつながりました。

日本食の親善大使にも選ばれる

英毅氏は、銀閣寺大西に「全くの未経験者」として入社し、ほどなく海外事業を任されています。そこには、現社長の雷三氏の計らいがありました。

海外事業に挑む前、英毅さんは社長から言われました。「活躍できる場がないと、みんなの信頼を得られない」。そう背中を押され、自身の経験と強みを思い切って生かせたといいいます。

その後、英毅さんは21~24年にかけ、同様の手法で、イタリアやスイス、アメリカにも現地法人を設立します。シンガポールには小売店、イタリアには工場も建設しました。英毅さんが17年に入社したとき、1500万円前後だった海外の売上げは、23年には約100倍になりました。

いま、欧米やアジアで「和牛」は、一般的な「牛肉」とはほぼ別ジャンルの高級食材として人気をぐんぐん高めています。英毅さんは23年12月、農林水産省が委嘱する「日本食普及の親善大使」にも選ばれました。「まだまだ、海外の和牛は伸びる。食肉だけでなく、食文化も運んで行きたい」と見据えています。

銀閣寺大西

1930(昭和5)年、左京区北白川で大西孫四朗氏が食堂兼下宿を営んだのがルーツで、1953(昭和28)に現在の場所で精肉店を創業。1990年代にオリジナルブランド「村沢牛」の販売を開始し、2007年に地場スーパー「エムジー」を子会社化した。現在は、京都市を中心に食肉の卸、小売りをするほか、焼き肉店経営や海外輸出、海外法人の経営も手がけている。

【この記事の後編】「イタリア産和牛ってどういうこと?」世界で高まる和牛人気 「街のお肉屋さん」が海外売上げ100倍を達成できた理由

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賢者の選択 サクセッション編集部

賢者の選択サクセッションでは、⽇本経済の課題解決と発展のためには、ベンチャー企業の育成と併せて、これまでの⽇本の成⻑を⽀えてきた成熟企業∕中堅‧中⼩企業における事業承継をフックとした経営資源の再構築が必要であると考えています。 ビジネスを創り継ぐ「事業創継」という新しいコンセプトを提唱し、社会課題である事業承継問題に真摯に向き合うことで、様々な事業承継のケースを発信しています。 絶対解の存在しない事業承継において、受け継いだ経営者が事業を伸ばす きっかけとなる知⾒を集約していきます。

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