COLUMNコラム
「君の会社、ゴミを作ってるようなもんだね」 心ない言葉で失意の底に、それでも大地震で気付いたパッケージの価値
「売れる商品パッケージ」を生み出す企業として注目を集める「株式会社パッケージ松浦」(徳島市)。父が創業した同社に、20代後半で入った長男・松浦陽司氏(50)は、業界の伝統の「頭と価格を下げる」営業を進めたが、経営を圧迫して大赤字に。さらに、取引先から「ゴミを作っている会社」と言われ、仕事そのものが嫌いになってしまった。しかし、社長を継いだ後、ある大災害を機にパッケージの価値に気づき、「売れるパッケージ」への改革を始める。松浦氏に経緯を聞いた。
目次
「人前でしゃべれるようになれ」「いい大学に行け」
−−−−パッケージ松浦について教えてください。
私が中学2年の時、父の叔父が経営するパッケージ会社から両親が独立し、パッケージ松浦を立ち上げました。いずれは叔父の会社を父が継ぐはずでしたが、話がなくなったため独立したそうです。創業期はバブル時代だったので、営業すれば注文が入り、経営は順調だったようです。
−−−−小さいころから後継者という意識がありましたか。
私は3歳下の妹と2人兄弟です。家庭全体が、将来は私が継ぐという雰囲気で、特に反発なく受け入れていました。父からは、「人前でしゃべれるようになれ」「ディベートクラブに入れ」「本を読め」などと言われ、著名人の講演テープを渡されたりしましたが、父の言うことは全然聞かない息子でした。
父は、学歴にかなりこだわっていました。「お前が行ける範囲で一番いい大学に行け」と言われ、物理と数学が得意だったので広島大学理学部に入学しました。
大手パッケージ会社で営業を担当
−−−−大学卒業後は家業に入らず、ほかの会社に勤務されたそうですね。
両親が「大きい会社で修行してこい」というので、大学を卒業した1997年、大塚包装工業株式会社に入社しました。パッケージの箱などを作る大手企業です。
同じパッケージ業界ですが、うちは工場機能を持たずメーカーから仕入れて売る卸売業で、大塚包装工業は工場を持つメーカーです。新入社員の頃は、3か月くらい工場に勤務し、その後は広島営業所で山口県担当の営業をしていました。
大塚包装工業では箱ばかり扱っていたので、パッケージ松浦に戻ったとき、本業の「袋」のことは何も分からず、父に「お前は一体、何を学んできたんだ」と怒られました。
−−−大塚包装工業に5年勤務した後、パッケージ松浦に入社していますが、そのきっかけは?
「30歳までは外で修行しろ」という話だったのですが、パッケージ松浦の空気が悪くなっていたので、「早く帰ってこい」という父の要請がありました。
当時、営業部長に問題がありました。営業成績はすごく優秀で、顧客に対してはすごく朗らかだったのですが、社内と仕入れ先には怒鳴り散らすようなタイプでした。
このため、社内の雰囲気が悪くなっていたのですが、営業の実績があるから、父も文句が言えなかったようです。だから、「私に会社の主導権を取ってくれ」という思いがあったのではないでしょうか。
頭も値段も下げまくる…だんだん嫌に
−−−−入社後、どのような仕事をされたのですか?
最初は営業で、例の営業部長に同行していました。ただ、彼は私に仕事を渡す気は一切なく、何も教えてくれない。
「じゃあ一人で回ろう」と得意先に行っても、営業部長が先に「うちのボンは役に立たなくて」などと触れ回っており、たいていのお客さんは冷たい態度でした。
営業の数字が取れないため、配達の仕事をやろうと考えました。袋のストックをパン屋などに配達する仕事があったので、朝一番に伝票を全部持って配達に出ましたが、「配達社員の仕事がなくなるからやめろ」と父に言われ…。この時期は、いろいろ辛かったです。
−−−−当時の会社の経営状況はどうでしたか?
売り上げは順調に成長していたのに、大赤字でした。安く売っていたからです。
卸売業の平均の半分以下という粗利で売ってしまうのが常でした。しかも、上得意先には請求書から数%値引きしたりすることもありました。父は決算書を見なかったため、気づいていなかったと思いますが、経営はギリギリの状態でした。
当時の卸売業は、「とにかく頭と価格を下げて注文をもらう」のが当たり前でした。「10円」と提示しても、「よそは9円やで」と言われたら、「じゃ8円80銭にします」という世界。「安くする業者ブランディング」でした。
こちらの提案内容も人柄も関係なく、とにかく値段だけで判断される。そんな実情を目の当たりにして、だんだん仕事に嫌気がさしてきました。
とどめとなったのが、顧客からの言葉です。「松浦くんの会社って、ゴミを作ってるようなもんだよね」と言われました。
袋というのは、中身を食べたら捨てるものです。つまりゴミ。あながち間違ってないな、と思いました。ということは、うちの会社はゴミ製造業、環境破壊業なんだ…と思うと、パッケージ自体が嫌いになってしまいました。
災害時、パッケージの価値に気付かされる
−−−−「仕事が嫌い」という状態から、どのように抜け出したのですか?
2011年の東日本大震災が、きっかけです。
震災直後、スーパーやコンビニからいっせいに商品が消えましたが、実は商品が作れなかったわけではありません。作れなかったのは「袋」です。
ペレットという袋の原材料が作れず、パンもお菓子も作れるのに、袋がなくて出荷できない状態でした。
弊社の得意先の饅頭屋も、袋がないため商品の出荷が止まっていました。「何とかしてくれ」と連絡があり、私はメーカーに頼み込み、何とか納品できました。
そのとき、饅頭屋の社長から、「松浦さんのおかげでうちの商品が出荷できます、ありがとうございます」と言われたのです。「ああ、パッケージはゴミじゃなかったんだ」と、長い間の心の引っかかりがとけました。
−−−−今は、パッケージの意義をどのように考えていますか?
パッケージを使う理由は、2つあります。
1つは、安全安心に商品を輸送するため。お菓子でも何でも、商品は裸のままでは安全に輸送できません。食品は袋に入れておかなければ、カビが生えたり湿気が出たりします。
もう1つが販売促進です。透明無地でも事足りますが、デザインや形状を考えたりするのは、売れてほしいからです。
うちのお客さんは単なるパッケージが欲しいのではなく、「安全安心」「販売促進」が欲しいからパッケージを使うんだ、という気づきを初めて得て、会社が進むべき方向性が分かってきたと思います。
松浦陽司氏プロフィール
1974年、徳島県生まれ。広島大学理学部を1997年に卒業後、大手パッケージメーカーの大塚包装工業に入社。2002年、パッケージ松浦に入社。2005年4月に創業者である父の後を継いで同社代表取締役社長に就任。売り上げを伸ばすためのパッケージ資材やブランディングの提案を行うとともに、ブログやセミナー、講演などでパッケージマーケティングについて発信を続ける。著書に『売上がグングン伸びるパッケージ戦略』『売れるパッケージ5つの法則と70の事例』。徳島県中小企業家同友会、日創研徳島経営研究会、盛和塾〈徳島〉、四究会所属。
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