COLUMNコラム
「青いラベル」の焼き肉のたれ、パッケージを変えると売り上げ8倍 パッケージマーケティングの力とは
「売れる商品パッケージ」を提案する「パッケージマーケティング」で注目を集める株式会社パッケージ松浦(徳島市)。父が創業した会社を引き継いだ長男の松浦陽司氏は、赤字経営からの脱却と会社の改革に挑んできた。パッケージを変えると、売り上げが大きく伸びることに注目し、高付加価値のパッケージで売り上げとブランドに貢献する「パッケージマーケティング」を確立した。会社の変革を進めた経緯や、パッケージの力について、松浦氏に話を聞いた。
目次
経営改革と社風の改善に取り組む
−−−−パッケージ松浦に入社してから社長就任まで、どのような仕事をしたのですか?
大手パッケージ企業を経て2002年に入社し、営業を頑張っていました。でも、なかなか成果が出ず、営業部長に怒鳴られる日々。だんだんパッケージ自体が嫌いになっていて、仕事も嫌になっていました。
それが2003年、ある人に勧められて日本創造教育研究所の2泊3日研修に行き、「今、起きていることはすべて自分の責任」という言葉に衝撃を受けました。
営業できないのは営業部長のせい、苦しいのは両親が家業に呼び戻したせい。すべて他人のせいにしていました。それではいけない。いずれ家業を継ぐのだから、嫌がっていてもしょうがない、と腹を括るきっかけになったのです。
2004年からは月2回、土曜日の出勤日に朝礼をすることにしました。まずは挨拶が大切だ、と思って「おはようございます!」と大きな声で言ったのですが、皆、シーンとしてしまいましたね。
あとはしゃべることがないので、「松下幸之助さんの本にこんなことが書いてありまして…」などととりとめもない話をしていたのですがが、まったく手応えがありませんでしたね。
営業部長には朝礼後にいつも呼び出され、「お前、自分にろくな経験もないのに、何が松下幸之助の話じゃ」と怒られていました。それでもめげずに、次の朝礼時には「おはようございます! 稲盛和夫さんの読んだんですけど…」と話し続け、また怒られる。その繰り返しでした。
−−−−2005年、正式に社長に就任されますが、どのようなきっかけだったのですか?
営業部長が辞めることになったのです。営業部長は、自分の顧客や売り上げを半分以上持って独立したため、会社は大打撃を受けました。
そこで父が、私に「社長をやってみるか」と。即、「やらせていただきます」と返事をしました。この頃から、月2回だった朝礼を毎日始め、会社の空気が少しずつ変わってきました。
−−−−社長に就任して、まず何に着手したのですか?
決算書を見ると、会社が本当に危機的状況であることに気づきました。
まず、徹底的にコストをカットしました。固定費では、両親に給料を下げてもらう。社員の休憩所にあった自動販売機を廃止する。さらに、週に2日ほどしか稼働していなかった「整袋機」という機械を売り払いました。
変動費では、仕入れ金額の削減に取り組みました。伝統的にパッケージ業界は「頭も値段も下げて売る」という体質が色濃く、しばらく「安く売る営業」から抜け出せませんでした。でも、社長就任の2005年から現在まで、まだ1回も赤字を出していません。
パッケージマーケティング業への取り組み
−−−−その後の取り組みについて教えてください。
2011年の東日本大震災で、パッケージの袋が不足して商品が出荷できない事態が広がりました。そのとき、初めてパッケージの価値に気づきました。パッケージは、ただの入れ物ではなく、「安心安全」な出荷を担保し、しかも「販売促進」するためにある。「販売促進」に力を入れ、高付加価値のパッケージを届けようと考えました。
手始めに、自分でブログを書いてみたり、会社主催でパッケージマーケティングセミナーを開いてみたりしました。ブログの記事が溜まると、「本を書いたらどうか」と勧めてくれる人がいて、「講演依頼が増えるかもしれない」と思い、2013年に本を出版しました。
−−−−発信活動のほかに、注力したことは何でしょうか?
当時は、袋を注文したらメーカーがデザインも手がけるのが慣習でした。そこにデザイン代金は発生せず、マーケティングやブランディングという観点もないため、いいデザインは少なかったのです。
きちんとしたデザイナーを入れるには、パッケージを発注する企業からデザイン代ももらう必要があります。慣習にないことなので、難関と思われましたが、本を出したタイミングで、思い切ってデザイン代をもらうことにしました。
はじめてデザイン代をもらった案件は、当時74歳の女性が手づくりし、過去30年間売れていなかった焼肉のタレです。
青を基調としたラベルだったのですが、青は食欲が減退する色。そこで、「なぜ、このタレを売ろうと思いついたのですか」「味の強みは何ですか」とヒアリングすると、「だって、すごくおいしいタレなんです。家で焼肉をすると、孫が『今夜は焼肉じゃ』と喜ぶんですよ」とのこと。
「お〜い、お茶」のように、消費者に呼びかけるネーミングは訴求力が強いと考え、商品名を「今夜は焼肉じゃ」に変えてパッケージデザインもガラッと変えたら、売り上げが8倍になったのです。
以降、数々の商品のパッケージを手がけさせていただきましたが、「パッケージを変えたら売り上げが上がった」という嬉しい声を多数いただいています。
「パッケージを売る」のではなく、パッケージによって市場を開拓し、ブランドを確立する。これを「パッケージマーケティング」と定義し、経営の軸に据えています。
−−−−「パッケージマーケティング」を進めるようになり、社内の雰囲気は変わりましたか?
社内に1人デザイナーがいますが、私のブログを読んだのがきっかけで、一緒に仕事をするようになり、入社してくれました。彼は、かつて顧客の注文通りのチラシを作る会社にいたので、弊社のように自ら提案ができる仕事に面白さを感じたようです。
2020年には、私の本を読んで興味を持ったという、大学新卒の女性も入社してくれました。社員の入れ替わりもあり、なかなかいい社風になっていると思います。
世代交代への思い
−−−−会長であるお父様は、松浦さんのやり方についてはどのように見ておられますか?
2005年の社長就任の頃は、よくケンカしていましたね。父は今でも、「頭と価格を下げろ」と言い続けていますし、「研修に行ったり本なんか書いたりしてる暇があったら、営業に回れ」とも。
パッケージ松浦は、昔は「パッケージ卸売業」でした。でも今は、「パッケージマーケティング業」と名乗っています。社会も会社のあり方も、まったく変わっているのです。怒られてもぶつかっても、変えるところは変えていかなければいけないと思っています。
理想としては、ちゃんと数字を出して「やっぱりお前が正しかった」と言ってもらえるようにするのが一番いいと考えています。
−−−−将来的に会社を次の代に承継するとしたら、どのような形になるとお考えですか?
高校生の娘が一人います。継いでくれるなら嬉しいですが、理系で研究職に進みたいようなので、難しいかもしれませんね。誰が継ぐにしても、社風がいい状態で次に渡したいし、顧客が増え、売り上げや利益が残り続ける仕組みを確立して引き継ぎたいと思っています。
松浦陽司氏プロフィール
1974年、徳島県生まれ。広島大学理学部を1997年に卒業後、大手パッケージメーカーの大塚包装工業に入社。2002年、パッケージ松浦に入社。2005年4月に創業者である父の後を継いで同社代表取締役社長に就任。売り上げを伸ばすためのパッケージ資材やブランディングの提案を行うとともに、ブログやセミナー、講演などでパッケージマーケティングについて発信を続ける。著書に『売上がグングン伸びるパッケージ戦略』『売れるパッケージ5つの法則と70の事例』。徳島県中小企業家同友会、日創研徳島経営研究会、盛和塾〈徳島〉、四究会所属。
SHARE
記事一覧ページへ戻る