COLUMNコラム
「お前の株式は偽物だ」怒って裁判する父、目も合わせてくれない銀行 大ピンチの工場を、娘はどうやって承継したのか
100億円の借金を抱えた地方の企業「平鍛造株式会社」(石川県羽咋市)を復活させた平美都江氏(68)。しかし、カリスマ経営者だった父は、娘への事業継承を許さず、突然、会社の「閉鎖」を宣言した。同時にリーマン・ショックによって大ピンチになった会社を、平氏は再び軌道に乗せていく。父との裁判沙汰、弟の突然の死など、波乱万丈の事業承継を平氏に聞いた。
目次
カリスマ経営者から事業を引き継ぐためにすること
−−−−事業を継承した経緯を聞かせてください。
100億の借金から一転、無借金経営になって弟が2代目社長になりました。でも、弟と一緒にやっていけないと考えた私は、税理士になるため、会社に籍を置いたまま専門学校に通っていました。
そんな時、弟が事故に遭ったと電話がありました。病院に着くと、すでに心肺停止でした…。
社長が亡くなっても、多くの従業員がいる会社を急にやめることはできないので、再び父が社長に戻りました。
その後、会社経営は順調でした。無借金になると取引先をこちらが選ぶこともでき、上場企業相手の良い仕事ができていたからです。当時、営業の大半を私が担っており、いずれ私が会社を引き継ぎ、その次は弟の息子(甥)に引き継ごうと考えていました。
−−−−創業者の平昭七氏は、カリスマ経営者として知られますが、どのような経営だったのでしょうか?
父はゼロから土地や設備を用意して、事業を立ち上げました。ピーク時は300人の従業員を抱え、会社が苦しい時期も給料やボーナスを出していたのでカリスマとして崇められていました。
父は「俺が『カラスは白い』って言ったら白だ」というような絶対君主の考えで、異論を唱えれば即刻クビにするような人でした。このようなカリスマ経営者に対しては、人前でプライドを傷つけるようなことを言ったり、考えを否定したりしてはだめです。そのため、父と私で意見が割れたときは、二人だけで話をするようにしていました。
ほかの企業でも、カリスマ経営者は絶対的な自信を持っている場合が多いです。そこから事業承継をする人は、先代の考えに沿ってやっていくという姿勢を見せ、安心感を引き出さないとうまくいかないと思います。私は、父が安心して会社を渡してくれるよう、常に気を遣っていました。
青天の霹靂だった閉鎖宣言
−−−−その後、いきなり会社の閉鎖宣言があったということですが。
リーマン・ショック前の忙しい時期、突然、父が会社の閉鎖宣言をしました。驚いたのですが、壊れた機械も直さず、本当にやめる気なんだと理解しました。
「平鍛造=平昭七」という思いが強かった父は、社長を辞めるときは会社も無くなるものだという考えだったかもしれません。
しかし、取引先のメーカーや商社は困ります。取引先だけでなく、石川県副知事や県議会議員も来て、地方の重要な産業や雇用先ということもあり、「やめないでくれ」と言ってくれたんです。すると、父はどんどん有頂天になり、会社閉鎖を保留にしていました。
そんな最中、リーマン・ショックが起こりました。すると、取引先はベアリング素材などが不要になり、「やめたければやめろ」と態度が変わってしまいました。従業員も多くいたため、会社を辞めることもできないので、私がお詫び行脚で取引先を回りました。
お詫び行脚では散々怒られたのですが、「父を追い出して社長を交代しろ!」という要求が出てきました。それくらい取引先は怒っていました。
これ以上、取引先を減らすことはできず、会社の株式を3分の1ずつ所有する私と甥が相談し、父に会社をやめてほしいと進言しました。すると怒った父が「お前たちの持つ株式は偽物だ」と主張して裁判になってしまいました…。
結局、裁判官が「良い会社がなくなってしまうのは残念」と和解調停を提案し、父個人に60億円を払って会社が株式を買い上げる形で決着したんです。こうして私が平鍛造の3代目社長になりました。
海外に活路を見いだして再びピンチを脱する
−−−−3代目社長として、どのようにスタートしたのでしょうか?
どんなに信頼関係があっても、この業界は取引を一度ストップすると、簡単には再開できません。そのため、ほぼゼロからの厳しい船出となりました。
一番の問題は会社に資金がないこと。父に和解金を払い、リーマン・ショックで発注がほとんどなくなったため、お金がなかったんです。
メガバンクや地銀などに融資を頼みに行っても、カウンター越しに目も合わせてくれない始末で、1円も貸してくれませんでした。おそらく平鍛造が復活することはないという判断だったのでしょう。
工場を8億で売ることで、従業員に給料を払ったり、電気代や重油代とかのランニングコストを捻出したりして、凌いでいました。
−−−−再び厳しい状況に陥ったなかで、どのように会社を再建したのでしょうか?
国内だけで状況が好転することはないと判断し、以前に商社経由で石油関連会社の仕事をもらったシンガポールの会社に行ってみました。当時のシンガポールは、ものすごい量の石油を採掘していくスタートの時期で、関連会社がどんどん生まれていました。
シンガポールで数社回ると、毎月数万個の受注がすぐ決まり、会社を建て直すための土台ができました。以前、会社が抱えていた100億円の借金を返すために商品の値上げをしたタイミングも良かったですが、結果として海外に目を向けたタイミングも絶妙でした。
我ながら運が良いと実感していますが、何かあったときに落ち込んだり、心配したりしても解決しません。何もせず心配することは、空想じゃないですか。悶々としているくらいならとにかく行動し、失敗したらまた次に挑むことが大事だと思っています。
理想的な形で平鍛造を残すための決断
−−−−2018年、会社を売却し、ベアリング大手「NTN」の子会社となった理由は何だったのでしょうか?
会社が再び軌道に乗ったら、甥に事業を継承してもらうつもりでした。甥にも話をしていたのですが、甥は亡くなった弟の意向を受け、医療系の大学に進学し、卒業後の1年はレントゲン技師をしていました。
それでも、甥は私が3代目になるタイミングで入社し、現場や金型部門の部署で頑張っていました。数字的なセンスが良く、金型の専門技術も習得する頭の良い子だったのですが、5年勤務して金型チームのリーダーになったとき「やめる」と言い出しました。
理由は、金型チームの従業員が甥の言うことを聞いてくれないからでした。私もかつて、現場に不慣れで従業員から信頼されなかったので、「同じ経験をした」と説得したのですが、「一つの部署をまとめられないのに、会社全体を仕切る社長なんてもっとできない」と甥の意思は固かったのです。
最後は、甥が持っている株式を買い上げる形で退社しました。代わりの後継者候補として私の長女夫婦が入社しましたが、業種が合わなかったようで辞めてしまい、後継者のめどが立たなくなりました。
今後も平鍛造の技術を残していくため、大きな会社にM&Aで株を買ってもらい、親会社が獲得した仕事を平鍛造でやるような形が良いかと考えて、売却しました。
時代に合わせて柔軟に経営方針を転換する
−−−−事業承継についてのお考えをお聞かせください。
経営者としての心構えは、父がやっていた通りにしてきました。でも、近年は世の中の動きが速く、経営方針は時代の流れで変える必要があると感じます。
事業承継は、会社ごとに100社100様だと思いますが、オーナー企業はどうやって従業員を守っていくか、地域の産業を守っていくか、という点を柔軟に考え、承継判断をする必要があります。
社長室に飾ってあるような社是にとらわれた舵取りをしていると、将来にわたって会社を残すことは厳しいと強く感じます。
プロフィール
平鍛造 平美都江氏
1956年7月3日、東京都大田区生まれ。両親の病気を機に1977年に日本女子大学理学科を中退し、平鍛造株式会社に入社に入社。工場の現場や営業職を経て、最大100億円あった借金の返済に奔走。1986年に専務取締役就任。リーマン・ショックなどの景気悪化による受注量激減や、廃業を主張する父との訴訟を経て2009年に代表取締役社長に就任。経営の合理化などの取り組みで業績を回復させ、2018年に株式を譲渡し、大手ベアリングメーカー「NTN」の完全子会社となった。
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