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クラフトビールのブームが終わったとき、「よなよなエール」はどう復活したのか 7年間、眠っていた「IT業界の超大物」の手紙

信州・軽井沢に1997年、日本では当時珍しかったクラフトビールの醸造所として誕生した株式会社ヤッホーブルーイング。「よなよなエール」「水曜日のネコ」「インドの青鬼」など独創的なクラフトビールを次々に生み出す同社は、星野リゾートのグループ会社だ。創業時から在籍する井手直行代表取締役は、当初は地ビールブームの追い風を受けて順調に売り上げを伸ばしたが、地ビールブームの終焉で長い苦戦を強いられた。あきらめずに戦いつづけた井手氏の起死回生の原動力になったのは、7年間眠っていた「IT業界の大物」の手紙があった。

「自然の中で暮らしたい」長野・軽井沢に転職

−−−−ヤッホーブルーイングに入社する前の経歴をお聞かせください。

福岡県の高専を卒業後、電気機器メーカーに5年ほど勤めました。それなりに楽しかったのですが、誰かの役に立っている実感がわかず、次に環境アセスメントの会社に転職します。けれど、この会社も自分のイメージとは違っていて、半年ほどで辞めました。

その後はフリーターをしながらバイクで日本中を旅する生活を続け、お金がなくなってきたころに、「どうせなら自然の中で暮らしたい」と考えて、就職雑誌で見つけた軽井沢の広告代理店に営業職として就職しました。

3年ほど勤めましたが、経営者と折り合いが悪くなり、再びフリーター生活に戻ります。1997年、広告代理店で私の顧客だった星野リゾート代表の星野佳路に、「今度新しい事業をやるんだけど、一緒にどう?」と声をかけられました。

星野リゾートの代表から誘われて

−−−−星野さんとの出会いが、その後の井手さんの人生を大きく変えるわけですね。

星野リゾートは当時、軽井沢では有名でしたが全国的にはまだ知名度も低く、採用に苦労していました。元気のいい営業マンが仕事を辞めてぶらぶらしていると聞いて、私を誘ったようでした。

私はリゾートの仕事にはあまり興味がわかなかったのですが、「新規事業の話だから1回聞いてよ」と言う。渋々会いにいったら、その足で、すぐ隣町に建設中のビールの醸造所に連れて行かれました。

−−−−その仕事に心が動いた理由は何でしたか?

ちょうど当時、酒税法改正で小規模のビール醸造が解禁され、地ビールメーカーが各地にできはじめていました。星野は「アメリカで小さな会社が作る個性的なエールビールを飲んで感動し、日本でも広めたいと思った」と、熱く語っていたことに心を動かされたのが第一の理由です。私自身もビールは大好きでした。

何より、星野という人にとても興味があったんです。当時30代の若い時から、頭の回転が早く、知識も豊富で、論理的で説得力がある。周りの経営者とは全然違っていました。

そんなすごい人でありながら、一介の営業マンだった私にも、非常に気さくに話しかけてくれる。そういう人と一緒に仕事をすることに、魅力を感じました。

地ビールブームはすぐに過ぎ去った

−−−−1997年4月、創業とともにヤッホーブルーイングに入社し、どのような仕事を手がけましたか。

第1弾のクラフトビール「よなよなエール」の生産が始まったのが1997年7月です。営業担当として、酒屋さんやスーパー、問屋さんなどを回って「よなよなエール」を売り込みました。

翌1998年には、開催予定の長野オリンピックの表彰式会場になるスペースが長野駅の近くにあり、開催までの半年ほどの間、そこでビアパブもやりました。飲食店の経験などなかったのですが、料理やアルバイト採用、店舗運営など、すべて素人ながら手探りでやっていました。お客様が「はじめて飲んだけど、いいね」と言ってくれるなど、人が喜ぶ顔をじかに見られたことが、とても楽しかった思い出があります。

−−−−地ビールブームがピークを過ぎると、会社の経営は厳しくなっていったのではないでしょうか。

1999年をピークにブームが下火になり、売り上げは下がっていきました。取引先のどこに行っても、「みんな地ビールに飽きちゃったんだよ、売れないから扱うのをやめた」と言われます。スキー場での試飲会などもやってみたのですが効果はなく、途方に暮れる状態が数年続きました。

売れ行きが悪くなると、社内の雰囲気もだんだん険悪になります。社員が次々辞め、ピーク時は20人ほどいたスタッフが、2003年ごろには半分になってしまいました。

−−−−井手代表は、辞めたいとは思わなかったのですか?

思いませんでした。理由は二つあります。

一つは、過去に勤めた会社では「自分がいなくても次の人が来るから大丈夫だ」と思っていました。しかし、ヤッホーブルーイングはつぶれそうだったため、無責任に離れることはできない、と思いました。二つめは、創業時からいた会社なので、思い入れもあったんです。

奇跡のV字回復、原動力になった1通の手紙

−−−−経営危機の状態を乗り越えるきっかけとなったのは?

経営が苦境に陥っていた2003年ごろ、星野リゾートが各地のリゾート再生に成功して注目を浴びはじめ、忙しい星野は地ビール事業にあまりタッチしていませんでした。あるとき、「もうどうしていいかわからない」と彼に泣きついたのです。

「あきらめるのはまだ早い、まだできることはある」と星野は返してきました。こんなに赤字なのに、まだあきらめていないことに驚き、星野がそこまで言うのなら信じてやってみよう、と再び前を向きました。

−−−−具体的にはどんなことを実行したのですか?

一つだけ思いついたのが、インターネット通販でした。我々の会社ができたのが1997年の4月で、その1カ月後に楽天市場がオープンしました。うちは1997年6月に早々と出店したのですが、ほぼ放置していました。当時、私はパソコンをほとんど扱ったことがなく、ハードルが高かったんです。

星野に相談してしばらく経った頃、社内のロッカーの整理をしていたら、1通の手書きの手紙が出てきました。

「出店ありがとうございました、インターネットで一緒に世界を目指しましょう」と書いてある。なんと、楽天の三木谷さんから届いた出店のお礼状だったんです。そんな手紙があったとは知らなかった。すごく衝撃を受けました。事業を始めた時期は同じなのに、片方は今やIT業界で飛ぶ鳥を落とす勢いで、片や風前の灯。この違いは何だろうと。

そして2004年の夏、意を決してインターネットに取り組みました。楽天のネットショップ初心者向けの講座に毎週新幹線で通い、メルマガの書き方やトップページの作り方などを一から学びました。言われたことをひたすら愚直にやっていたら、本当に売り上げも軌道に乗っていきました。

楽天で得た学びと実践を繰り返すうちに、星野が日頃言っているマーケティングの話もリンクして理解できるようになったことも、思わぬ成果でした。楽天からの学びと星野からのアドバイス、両方の相乗効果で店舗運営がうまくいったのだと思います。

それまでがむしゃらに仕事をするばかりで、「仕事の勉強」を一切したことがなかった自分にとって、いい成長の場になりました。

−−−−ネット販売の成功の理由をどう分析していますか?

それまでの顧客は小売店やスーパー、つまりBtoBでした。しかし、ネットを介して直接消費者にアクセスでき、我々のビールについて伝えやすくなったことだと考えています。小売店の限られた商圏の中では、地ビールに興味のあるお客さんは少ないかもしれませんが、全国が対象のインターネットなら、そこそこのボリュームになります。その人たちに直接、売り場では伝えられないビールのこだわりを伝えられたことがよかったと思っています。

※記事中の星野佳路氏の敬称は、井手直行氏のインタビューに則し、略しております。

プロフィール

株式会社ヤッホーブルーイング 代表取締役社長 井手直行

1967年、福岡県生まれ。国立久留米高等専門学校電気工学科卒。大手電子機器メーカー、環境アセスメント事業会社、軽井沢の広告代理店勤務を経て、1997年、株式会社ヤッホーブルーイング創業時に営業担当として入社。2008年より同社代表取締役社長。「よなよなエール」を筆頭とする個性的なブランディング展開で、国内クラフトビールメーカー約600社の中でシェアトップを誇る。『ビールに味を!人生に幸せを!』をミッションに、新たなビール文化の創出を目指す。社内でのニックネームは「てんちょ」。

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賢者の選択 サクセッション編集部

賢者の選択サクセッションでは、⽇本経済の課題解決と発展のためには、ベンチャー企業の育成と併せて、これまでの⽇本の成⻑を⽀えてきた成熟企業∕中堅‧中⼩企業における事業承継をフックとした経営資源の再構築が必要であると考えています。 ビジネスを創り継ぐ「事業創継」という新しいコンセプトを提唱し、社会課題である事業承継問題に真摯に向き合うことで、様々な事業承継のケースを発信しています。 絶対解の存在しない事業承継において、受け継いだ経営者が事業を伸ばす きっかけとなる知⾒を集約していきます。

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