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「社長は70歳で辞めた方がいい。子どもっぽくなるから」 バナナペーパー売上げ200倍、会社を変えた3代目~山櫻【後編】

豪腕のカリスマ創業者が65年間も君臨し、「イエスマン」しか育っていなかった紙製品メーカー「山櫻」を41歳で受け継いだ市瀬豊和社長は、会社の変革に乗り出した。IT化、デジタル化を強力に進め、社会的課題に配慮したエシカル製品「ワンプラネット・ペーパー、通称バナナペーパー」などの新機軸も打ち出し、チャレンジできる社風を根付かせた。一方で、反発して社を去るベテラン社員もいた。事業承継や社風変革において大切なことを、市瀬社長に聞いた。

トップダウンでデジタル化、やめていくベテラン社員も

――IT化、デジタル化にも取り組まれ、社員の反応はどうでしたか。

市瀬 デジタル化は、やっぱりトップダウンでないとできないんです。資金もかかるし、事務作業など業務のやり方も変えないといけない。そして、無駄な作業を切ってやめさせる。「辞める人がいてもいいからやろう」と言って進めました。 

例えば、手書きの商品加工伝票がありまして、5枚ぐらいのカーボン複写式だったんですね。それを、1枚ずつ社内の各セクションに紙で持っていく。もう一切それやめようって言って、社長になって2、3年目にトップダウンでやりました。

新システム導入に伴い、パソコンを全営業や手配業務担当者に持たせました。ベテラン社員には、結構反発して、やめた人もいましたね。一方で、そのあたりで新しい社長は、やることが違うと感じてくれたと思います。

資金繰りは大変だった

――承継に当たって、山櫻には株式の問題はありましたか。

市瀬 同族企業だから当然ですが、創業者夫妻が大半、あとは私の母や叔母がメインで、残りは私の父親も叔父も持ってました。だから、株の所有を巡る問題はなかったですね。

大変だったのは、祖母と祖父が同じ年に亡くなったことです。株の移転や相続が一気に起きました。祖父母は、すごく真面目な経営者で、資金は全て経営につぎ込み、必要な工場や自社ビルに投資していました。

だから、株価だけが上がって預金が少なく、不動産も自宅だけ。相続に関する資金繰りは大変でしたね。父や叔父、僕らも払える額ではないので、会社との借金などいろんなことで乗り切ってきました。

ウェブ受注VS印刷営業、社内でクレームも

――事業承継後、事業の方向性はどのように変わりましたか。

市瀬 名刺や封筒、はがきなど紙製品だけを売っていても、これは限界が来るなと。そこで、創業80周年の2011年、東日本大震災の年に会社の企業ドメインを変えました。これまでは、紙製品の総合メーカーだと表現していましたが、「出逢ふをカタチにする会社」ということで、人と人、人と企業、企業と企業の出会いをお手伝いする紙製品、あるいは周辺サービスを提供する会社としました。 

たとえば、名刺は元々、印刷会社を通してユーザーに販売する流れでしたが、WEBを活用し直接名刺を受注するサービスを始めました。すると、ユーザーからの問い合わせが殺到して、名刺のウェブ受注がどんどん増えたんです。

でも、印刷業界向けの営業部門からすると、自分の顧客の仕事を取ったという軋轢が発生します。新規の名刺受注事業は、3人ほどでスタートしましたが、営業は150人ぐらいいますから、社内ですごいクレームになる。なかなかワンチームになれなかったです。

――そのアイデアは、社風が変わってボトムアップで生まれたのでしょうか。

市瀬 基本は私ですが、さっき話したM&Aした会社の社員が中心になったのです。元々、オーナー企業出身じゃないので、チャレンジャー精神がある彼らに託して進めることができました。外から来た人たちが頑張って、チャレンジできる社風が具現化しましたね。

売り上げ200倍、バナナペーパーが貧困を救う

――環境や貧困などの社会的課題に配慮した「エシカル製品」という新機軸も打ち出しています。

市瀬 1990年代、日本経済がすごく発展したときに、大量の紙を使うわけですよね。紙は森林を伐採するから、環境に悪いとしてかなり叩かれました。そのあたりから、名刺に古紙を使うなどの動きが拡大してきました。 

その後、本気で環境に対して取り組みたいと考えるようになり、2012年に、「バナナペーパー」の事業を開始しました。アフリカ・ザンビアの田舎の貧しい村で、バナナの茎から繊維を取り出し、紙にします。村には、電気やガス、水道、水洗トイレもなく、子どもたちは学校に行けていない。親も密猟などに手を染める。環境に貢献するだけでなく、その村に雇用を生みだします。

今、そこの村の雇用者は25人ですが、家族も含めて約250名の生活を向上させました。子どもたちは学校に行けるようになり、マラリア対策で蚊帳を購入し、死亡率を下げました。

バナナペーパーは11年目にして、売り上げは1年目の約200倍になりました。本当にここ3、4年ぐらいでぐっときた感じがあります。

社会貢献でメディアも注目、社員の意識も変わる

――グローバルな視点で社会貢献をすることには、現場の社員からもかなり次元の違う驚きがあったのではないでしょうか。

市瀬 バナナペーパーをスタートしたときには、多分相当異次元だったと思います。何を始めたんだろうみたいな。でも、お客さんの評価や問い合わせも増え、メディアの取材や講演の機会も増えました。

こうした評価が外から聞こえてくるようになると、社員も収益だけじゃない仕事や社会貢献、そして自身の成長の重要性に気づき、次のチャレンジへの好循環が生まれます。

会社を譲る側は、口出ししないことが大切

――市瀬社長からの次世代への事業承継が将来に控えていますが、ビジョンはありますか。

市瀬 社長になった瞬間から、どうやって誰に引き継ぐかという、30年後を見据えて経営しています。引退するためにどう会社を作り上げるか、商売を作り上げるか、組織を作り上げるか。未来が明るい会社を渡してあげないと、受ける側がかわいそうですよね。

今、なかなか中小企業の事業継承が難しくなってきています。でも、企業経営が面白いか面白くないか、未来があるかないかというのは、受ける側のモチベーションもあります。大変な時代であることは間違いないですよ。これだけ変化が激しい今、このコロナによってこの変化のスピードがさらに加速しましたから。受ける側の根本に、会社を良くしたいというエネルギーは必要ですね。

次、誰に引き継ぐかは決めていません。ただ、企業や組織のリーダーは70歳で引退した方がいいと思っています。持論ですが、70歳を超えるとだんだん子どもっぽくなってきますから(笑)。

譲る側としては、口を出さないことでしょうか。私が社長になった時、前社長は叔父ですけど、ほとんど口を出さないでいてくれた。後進に全部任せるという覚悟は重要かもしれないですね。

山櫻…1931年に「市瀬商店」として、市瀬邦一氏が26歳で創業した。名刺やはがき、封筒などの紙製品の製造・販売を手がける。邦一氏は、1997年に91歳で亡くなるまで社長を務めた。その後、邦一氏の次女の夫が2代目社長となり、2004年から市瀬豊和氏が代表取締役社長。年商119億円(2023年2月期)、社員数は507人。本社は東京都中央区。

前編|「化石か!」帳簿は手計算でIT化ゼロ カリスマ社長が65年君臨「イエスマン」の社風を変えた3代目~山櫻

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賢者の選択サクセッション編集部

日本の社会課題である事業承継問題を解決するため、ビジネスを創り・受け継ぐ立場の事例から「事業創継」の在り方を探る事業承継総合メディア「賢者の選択サクセッション」。事業創継を成し遂げた“賢者”と共に考えるテレビ番組「賢者の選択サクセッション」も放送中。

賢者の選択サクセッション編集長  前田 雄大

株式会社矢動丸プロジェクト 代表取締役。企業ブランディングの支援、ビジネス番組「賢者の選択」のプロデューサー、経営者コミュニティーの運営などに取り組む。自ら事業承継する中で、社会課題である事業承継問題と向き合うべく「メディア」と「経営者コミュニティ」を有する事業創継プラットフォーム「賢者の選択サクセッション」を立ち上げる。「メディア」で事例を紐解きノウハウを形式知化、「経営者コミュニティ」で知見を共有しソリューション提供を実施する事で、経営者の方々と共に課題解決に取り組み、日本の事業承継問題解決を目指す。

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