COLUMNコラム
事業承継の経緯 「じゃあ、あなたが社長をやりなさい」 ――弱冠24歳でカリスマ創業者から事業を承継した 二代目七田式主宰の挑戦/七田厚インタビュー#1

幼児教育の画期的なメソッド「七田式」の考案者として世に知られ、数多の著書をもつ七田眞(まこと)氏。その父が興した教育事業を引き継ぎ、発展させていった息子・厚氏に、事業承継にまつわる物語を伺った。
−−お父様である七田眞氏が、七田式を誕生させて会社を作られた経緯を、厚さんの視点からお伺いします。
七田:私は高校が広島で、島根の実家から出て寮生活をしていました。家にいた中学生の時まで、父は自宅で英語の塾をやっていたんですが、高校生になった年、父は英語の塾をやめて新しい幼児教育の会社を始めた様子でした。そして私が東京の大学に進んで3年目、つまり会社ができて5年経った時に、新宿にマンションの一部屋を借りて、その「しちだ・教育研究所」の東京オフィスを作ったんです。
その頃私は板橋区の3万円ぐらいの安アパートに住んでいました。父から、新宿御苑の新築のマンションを借りて会社をやることになった、夜と週末は誰もいないからそこに来て住まないかと言われて。それはいい話だと、もうふたつ返事で引っ越しをしました。80年代のことですね。
そうなると、何かちょっと手伝わないと悪いかなという気がして。ちょうどその頃パソコンに興味を持ち始め、大学でもコンピュータ言語を履修していたので、三菱のパソコン一式を買ってもらって、それで会員管理みたいなことを、見様見真似でやり始めました。それからもう一つ、幼児の英語の通信コースというのがあり、200人くらいのお客さんに教材を送ってその指導をする担当を任されました。その二つが、私の最初の仕事でしたね。
私、実は大学を4年で卒業できず、1年生と4年生を2回やったんです。6回生の時は週に1回大学に行けばよかったので、大学生でありながら週40時間は、会社で仕事をしていました。父はしちだ・教育研究所の東京オフィスに併設して、児童英語研究所という英語に特化した会社を作っていて、私はほどなく、そこの専務という肩書きを与えられました。
まだ大学に籍がある時に、父から一度、将来自分の仕事を手伝ってくれる気はあるかと聞かれたことがあるんです。その時は、申し訳ないけど継ぐ気はない、と答えました。理由は、 親が用意したレールに乗るのは、自分の人生なのに主体性がないんじゃないか、というのが一つと、もう一つは仕事の内容をあまり理解していなかったためです。父も残念そうではありましたが、そこで無理強いはしませんでしたね。
−−当初は継ぐ気のなかった厚さんが、24歳にして二代目社長に就任した経緯はどのようなものでしたか。
七田:大学を卒業して半年たった頃に、日本全国に七田式の幼児教室を作っていく目的で、七田チャイルドアカデミーというのを作る話になりました。その時点でのうちの教材は家内制手工業みたいなもので、社内の印刷担当の社員が機械を回して作っていたんです。手でカットするので、ちょっと不揃いで。資金も乏しかったし、今からしたら考えられないものを売っていたんですね。私は島根にも広島にも東京にも友達がいる、今後広く教室ができてこれらの人たちが七田式の教室に行くことになった時「お前んところの教室に入ったけど、あの教材はなんだ」って言われると思って。その教材はこういう風にした方がいいとか、いろいろ意見をしたんです。まあ自分もその時には専務という立場になっていたし、他にも会社の中のことを、こうした方がいいとかああした方がいいとか、父に進言しました。すると父は「そこまで考えてくれているんだったら、あなたが社長をやりなさい」と。あ、そう来たか、と思いましたね。
それで、1987年24歳の時、しちだ・教育研究所の第10期の期首から、私が一応バトンを受けて二代目社長になり、父は会長になりました。父としては、私が社長をやってくれたら、自分は講演活動や執筆活動に専念できる、という考えもあったんですね。

−−その後、お父様は別の会社を作ることになりますが、お父様と厚さんの役割分担、また経営初心者の厚さんがどのように七田式の経営に携わっていったのか教えていただけますか。
七田:父は私に会社を譲り渡したあと3か月後に別の会社を作り、そこの社長に就任します。父の講演収入と印税収入はその新会社に属し、うちの会社は父が考案した教材の売り上げと、父が原稿を書いてくれた会報誌の収入をもらう仕組みでした。父も当社の取締役会長でしたが、基本、経営は全部私です。教育内容的なことは全て父で、私はもう黒子に徹する。まあ言ってみれば、七田眞という著名人をプロデュースするような仕事ですね。父がこんな教材が作りたい、こんな企画がやりたいと言ったら、それを形にする。20年間一緒に仕事をしたんですが、基本は裏方に徹して、表に出ることは極力しませんでした。私自身が幼児教育の講演を始めたのは、父が亡くなってからなんです。
私は経営者としてはゼロからのスタートです。学校の先輩に紹介されたコンサルタントの先生には随分お世話になりました。毎月訪ねて行って話をしていたので、軌道修正してもらいつつ、そこで結構、知らなかった知識を補完することができました。もちろん、先生の言うことを鵜呑みにしていたわけでもなく、本も自分でいろいろ読んだりはしましたが、かなり参考にはなりましたね。また、ふた月に一度は、大阪の税理士さんのところへ行って、いろいろ経営状況の話をしたりもしました。とにかく20代の私は何も知らないという意識がとても強かったので、頼れるものは頼って知識や情報を得ていましたね。
あとから思えばですが、父は私が高校生の頃から時々、経営についての大切なことをいろいろ私に、ぼそっとささやいていました。例えば断片的に覚えている中では、「アウトサイダーたれ」、つまり、人がみんなこっちを向いている時こそ、別の方を向きなさい、そこにビジネスの種があるんだぞ…といったようなことです。私への事業承継を、父はずっと考えていたんだと思います。
▼経験ゼロから経営者としてのスタートを切った厚氏。次回は、会社を任された当初の苦労をはじめ、その後10年で会社を大きく成長させていった経緯と、その後の危機をいかに乗り越えたかについて語っていただく。
#2|「二代目主宰が掲げた「10年計画」と事業の成長」はこちら
#3|「二代目から三代目へ、つながる思い」はこちら
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