COLUMNコラム
「世界中の女性のパンストを、うちの機械が作っていた」 パンスト製造機で世界を制した「小さな巨人」の精神を受け継いで
奈良県にある株式会社タカトリは1950(昭和25)年、繊維産業用機械の修理業として創業した。パンティストッキング製造器「ラインクローザー」を開発して世界64カ国に販路を拡大し、創業者の髙鳥王昌氏は「小さな巨人」と呼ばれた。その後、繊維産業は衰退したが、SiC(シリコン・カーバイド)加工機で世界有数のメーカーへと変革を遂げている。パンスト製造器で世界を制したタカトリの「ものづくり」精神と、経営のバトンを受けた経緯を、増田誠社長に聞いた。
目次
ミスターものづくり“髙鳥王昌”
――創業者の髙鳥氏はどういう人物だったのでしょうか?
増田 「尊敬できるミスターものづくり」。これがすべてです。90年の生涯を閉じる最後の日まで、ものづくりに情熱を燃やしていました。 私自身、髙鳥のものづくりに憧れてタカトリに入社しました。ちなみに、私と血縁関係はありません。
――タカトリはパンスト製造機で世界を制覇したそうですね。
増田 かつて、パンストは手作業で縫っていました。髙鳥は「大変だから、機械化すればいい」と考え、画期的な機械「ラインクローザー」を開発しました。
ラインクローザーは、パンストの生産工程を変革し、地球の裏側まで世界64カ国を席巻しました。当時、世界中の女性が履いているパンティストッキングは、タカトリの機械が縫製したと言ってもいいくらい、マーケットシェアを占めていました。
反骨心をたぎらせていた営業時代
――タカトリのものづくりの原点とは、何でしょうか?
増田 社是である「創造と開拓」しかありません。
当社にある髙鳥王昌の胸像横に「終わることの無い使命を果たすべく、己の限界に挑戦し、志と夢を持って歩み続けよう! 創造せよ! 開拓せよ!」という碑があります。
言われたものをつくるのではなく、時代が何を求めるのかを読み切り、転ばぬ先の杖として製品を社会に供給していくこと。これが私たちの原点であり、すべてです。
――増田社長は、髙鳥氏とはどんな関わりだったのですか?
増田 私は機械メーカーの社長ですが、文系出身です。でも、若いころから開発会議に営業の立場で呼ばれていました。なぜか髙鳥の近くの席に座らされ、よく怒られていました。
いつも「増田は営業やから、技術はようわからん」と言われました。私はまだ若くて血の気が多く、「このおっさん、何言うとんのやろ」と思っていました。
そして、「俺だって、自分で開発できなくても、社内のエンジニアや他社と組んで、自分の作りたいものを作るぐらいのことはできるわ」と、反骨心をたぎらせていました。
後から思えば、髙鳥は私にわざと反発させ、跳ね返りのエネルギーを期待していたのかもしれません。今となっては感謝しかありません。
病室で問われた「俺のものづくりを継ぐことができるか?」
――増田さんは5代目の社長ですが、社長に就任された経緯を教えてください。
増田 髙鳥は晩年、自宅と病院と会社を往復する生活を送っていました。会社のことが気になるとエンジニアを病室に呼び、医者の反対を押しのけて勝手に退院して会社に来ることもありました。それくらいものづくりに対して深い執着心を持っていました。
私は営業担当なのに、会議で出しゃばって製品の企画や開発について発言していました。後に、私の前の2~4代目の社長から聞いたところによると、私の姿を見ていた髙鳥が「こいつにバトンを渡してもいいかな」と話していたそうです。私も、「髙鳥王昌のものづくり」を継いでいける人間は私かな、と自負していました。
――髙鳥王昌から直接、社長になれと言われのですか?
増田 社長が3代目から4代目に変わるタイミングで、髙鳥が入院している病室に呼ばれ、「俺のものづくりを継ぐことができるか?」と問われました。そして、「ただし、お前は若すぎる。しっかり勉強せえ」と付け加えました。
――いずれは社長になれということですね?
増田 「すぐちゃうんかい!」と思いましたけどね(笑)。受けて立つよ、という気ではいました。髙鳥王昌の考えでは年齢も重要な要素だったようです。
私の前の社長たちは財務面に精通していました。一方、私は営業畑で、1年の半分くらいは海外に出る仕事でした。今もタカトリの売上げの80%は海外です。国内外のいろんな人脈を使いながら、事業展開を企画していたのです。髙鳥から見たら、そうした私の仕事ぶりが少し魅力的だったのかもしれません。
病院で「何としても救わなあかん!」
――増田社長のモチベーションの源はどこにあるのですか?
増田 髙鳥への恩義が大きいです。私が社長に就任する前、妻が脳梗塞で倒れました。搬送先がたまたま髙鳥の自宅近くでした。夜10時ごろ、85歳を超えて電動車椅子だった髙鳥が、駆け付けてくれました。お風呂上がりだったのでしょう。ガウン姿でした。
「こんな病院に置いておいたら、助かるもんも助からん。大きな病院にすぐに移せ!」と大声を張り上げたのです。「将来のタカトリのトップの奥さんだから、何としても救わなあかん」という髙鳥の言葉は一生忘れられません。私自身がこの会社で頑張れる大義名分になっています。
当然、ステークホルダーや社会のためにという思いはありますが、原動力は何かと聞かれれば、やはり髙鳥に渡されたバトンの重さと恩義です。何としてでも恩返ししたい。それはすなわち、上場企業としての役割を果たすことだと考えています。
株式会社タカトリ
1950年、奈良県大和高田市にて株式会社 高鳥機械製作所を設立する。1970年、海外代理店と契約を行い、本格的に輸出を開始。1980年、これまでに培った技術を活かして、半導体機器分野に進出。1985年、株式会社タカトリに社名変更。2019年に胸腹水濾過濃縮装置M-CARTが日本人工臓器学会技術賞を受賞。
【この記事の後編】2位じゃダメ?…「我々に2番手はない!」 かつて世界を制したパンスト製造機メーカー、電気自動車向けの素材加工で世界トップに
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